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ある夫婦の10年間を90年代を背景に描いたというと、相当に湿っぽい作品だと思われるかもしれないが、その通りで、相当に湿っぽい作品だった。いちいちディティールが湿っぽい。でも、こういう映画が作れる監督がいるんだという事に、まず映画好きとしては感謝しなきゃならん。過去を忘れない。過去を水に流さないで、見つめる事で未来に繋げたい。そういう監督の想いがちゃんと映画に焼きついている。こういうのが演出だと思う。

ある夫婦の10年と、90年代という時代を丁寧に重ねていくうちに、物語が徐々にある振幅をもっていく訴え始める。子供を亡くし、うつになった妻の精神的な再生とその夫を描いているだけなんだけど、ちゃんと人間が描けている。こういうのが脚本だと思う。

主演のリリー・フランキーと木村多江が素晴らしかった。とくにリリー・フランキーのお陰で、映画がダメになりそうな危うい部分が、絶妙に救われている。これは多分職業俳優には出来ない。

監督も明言しているが、この映画はバブル以降の社会を背景としている。法廷画家である夫のカナオは、既に風化してしまった事件を写す。妻の翔子の兄夫婦には、バブル経済の影がちゃんと描かれている。そういう背景があるからこそ、この夫婦の10年の陰影が深くなってもいる。皆が体験した10年を、この夫婦も乗り越えたのだという説得力になっている。

このブログでは、何度もバブル、バブルと言ってきたが、別に何かを過去のせいにして、今を正当化したい訳ではないし、そんなことをしたところでなんにもならないことは分かっている。だが、バブルというのは今に至るひとつの分岐点だったとやはり思うし、その地点で日本人はある変化を遂げたことはまず間違いないと思う。橋本治の言葉を借りれば、「世の中の人間のあり方を規定していたものが消滅してしまった」という事になる。

その消滅は、この映画では妻の翔子が子供を亡くすというメタファーとして表現されている。翔子の精神的再生のターニングポイントとなる嵐の夜のシーンで、子供を亡くしてしまったことで自分を責め続けてきた翔子に対して、夫のカナオは「子供ことはいつも思い出してあげればいいじゃん。忘れないようにしてあげればいいんじゃないの」と言う。そして、その夜から翔子の人生の歯車はまた回り始める。

「世の中の人間のあり方を規定していたものが消滅してしまった」なら、やはりその時に戻ってみるしかないのだ。そして、その時の事を検証して、そこから何かを学び、先に進むしか道はない。それがまっとうな考え方というもんだし、それが当たり前の考え方というもんだ。土地は転がして儲ける資産ではなく、人間の生活が乗っかっているもんだという事を思い出す。経済が生活に従属していた、そいうところまで、多分、戻る必要がある。

この映画のメッセージは、過去を曖昧にして、受け止めないでいることはもう辞めようよという事でもあると思うし。

後半になると、この映画で初めて音楽が流れ始める。それは、この夫婦の人生が良き方向に向かい始める予兆でもあり、二人の、二人自身のあり方を、お互いで補完して規定していく過程でもある。

当然、背景となる時代は相変わらず流れているし、凶悪な事件も続いている。兄夫婦も相変わらずだ。ただ、この夫婦の間には別の風が流れて、不思議と時代と呼応しなくなっていく。それが監督が描く希望だと感じさせる。

個人的には「おくりびと」よりも良かった。
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アカデミー賞最多ノミネートだったのに残念だったね。
悪くない作品ではあったけど。。。

この監督

デヴィッド・フィンチャー - Wikipedia

全部見ているんだけど、基本的には好きになれない監督である。映画は凝った画さえあえれば何とかなると思っている節がある。というか画が全てだ的なカットがありまくりである。こういうのは映画作りに対する姿勢として支持できない。プロットをひとつひとつ押さえずに(監督の頭の中では押さえているつもりなんだろう・・・多分)、そういう「どうよ!」的な画をドーンと出して、「はい、次のシーン」が多すぎる。こういうのは本人は気持ちいいのかもしれないけど、観てる方はしらける。

主人公の心情の変化を丹念に追うとか、ちょっとしたカットで劇的な心理描写をしてみるとか、そういう基本的な事が出来ないのに、「ドーン」ていう画だけは好きです。というあり方はやっぱ監督としては駄目だ。

とここまで言っておいてなんだけど、ベンジャミン・バトンはそんなフィンチャーにしては、少しはしっとりした演出が出来る様になったね。良かったね感はあった。画を物語の必然として位置づけれているかと言うとそうでもないけど、まあなんとか分かるよというあたり。作品自体も、人生を逆に生きる男を主人公としながらも、悲劇性は薄く、淡々と彼の人生を描くという内容だったのも幸い。ブラピは相変わらず端正だし、ケート・ブランシェットも悪くなかった。

ただし、特殊メイクがいかんともし難い。。。もうちょっとなんとかならんのか?

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遅ればせながら、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチの全文を読んだ。
finalvent氏の訳が一番しっくりきた。

極東ブログ: 村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳

でもって各種報道記事にも目を通した。

村上春樹さん:ガザ攻撃を批判 イスラエル文学賞受賞演説で
村上春樹さん、エルサレム賞記念講演でガザ攻撃を批判
村上春樹さんに「エルサレム賞」=スピーチでガザ侵攻を批判

別にただの記事だからそれほど目くじら立てる必要もないし、イスラエル対ハマス的に報道したい気持ちも分からないではないけど、スピーチの内容全文ちゃんと読んだ?と聞いてみたい。あまりにも単純化しすぎだろう。

イスラエルもThe Systemだし、ハマスだってThe Systemだ。The Systemはあらゆるところに存在するし、正しく機能する場合もあるし、正しくなく、時に暴走することさえある。そうなった時、人(egg)はいとも簡単にThe Systemに絡め取られてしまう。そして、全ての人(egg)は多かれすくなかれThe Systemの中で生きてる。というかThe Systemの一部である。それが現実であり、真実である。でも、自分は常にeggの側に立つ。そう村上春樹は言っている。それが小説家である自分の仕事であり、責務だと。

eggの側に立つというのは、The Systemに人の尊厳を絡め取らせてはならないという決意の意味であり、The Systemの一部であったとしても、それに加担するつもりはないという表明だろう。もっと言うなら、eggとしてThe Systemに向きあう中から出てくる言説しか自分は信頼しない。そう言っている。

だから、このスピーチでイスラエル対ハマスなんて話はてんで的が外れている。

まあ、でもそれが個人的にこのスピーチで心惹かれた部分じゃない。そういう話は、村上春樹の小説を読んでいればおのずと伝わることだし。

村上春樹はずいぶん熱心に読んで来たし、学生の時は雑誌に掲載されるものもそれなりにチェックしていた。だから村上春樹が書いてきたことは大体把握しているつもりだ。

村上春樹は自分の父の話を、これまでおそらくはしたことがない。父という存在は、この作家にとって非常に希薄で、これまでの小説を読んでみても父が、物語中で重要な存在であったケース(しいて挙げるなら「海辺のカフカ」くらいか)は殆どない。エッセイでも家族の話は奥さんと猫以外の話は殆どない。

だから、このスピーチで父の話をする村上春樹は、僕にとって結構、というかかなり衝撃だった。こんな風に父との関係性を語る村上春樹を、僕は知らない。でも、The Systemとeggの話からすると、父を語った必然性も分かる。村上春樹の中で父がどういう存在であるかは断定出来ないが、eggであり続けようとした父という存在を確かに村上春樹は継承している。

すぐに浮かんだのは「ねじまき鳥クロニクル」だった。

ねじまき鳥クロニクル - Wikipedia

その中で語られる間宮中尉の話だった。おそらくは、それが一つの継承の形なんだろう。第3部の間宮中尉からの手紙をちょっと読み返してみた。安易に村上春樹の父=間宮中尉なんて簡単に図式化するつもりは毛頭ないし、それは物語を読むスタンスとしては最低だ。それでも、読み返してみた間宮中尉の手紙は別の意味をもって伝わってきた。eggの側に立つということの意味が伝わってきた。
最後の「ああでもなくこうでもなく」―そして、時代は続いて行く 最後の「ああでもなくこうでもなく」―そして、時代は続いて行く
橋本 治

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「広告批評」が休刊になる。

別に「広告批評」の熱心な読者ではないので、それほど感慨もないが、橋本治の時評が読めなくなるのはやはり残念だ。橋本治は、コンテンポラリーな思想家として相変わらずNo1だと思う。そういう人が時評を辞めるというのは、一読者として惜しい。

でも、この「最後の「ああでもなくこうでもなく」―そして、時代は続いて行く」のあとがきは、橋本治を読み続けて来た人間には確かに伝わる想いがあったのもまた事実で、こういう文章にはなかなかお目にかかれないから、それはそれで感謝すべき事かもしれない。

橋本治の文章は基本的に分かりづらい。別に論理が追えない訳でも、なにか難しい事を言っている訳でもない。なのに読んでみると分からない。分かった気にはなるが、やっぱり分からない。そういう文章を書く。この広告批評で続けてきた時評もそうだ。時評というものの性質上、なにか対象となるニュースがあるからわかりやすそうなものだが、これもやっぱり分かりづらい。でもその謎は、このあとがきで解けた。

橋本治はタダひたすら同じ事を言い続けてきただけだったのだ。だから、この時評もまた分かりづらかったのだ。対象となるニュースなんてものは、そもそもこの人には存在していなかった。「なんかおかしくないか?おかしいだろ。なのになんでおかしいって言わないの?どうしてそのおかしさをおかしさとして受け止めないのさ。そうしなきゃ前に進まないだろ?」この人は、バブルがはじけて以降ひたすらそう言い続けてきただけだった。

変な事件が起きれば、ちゃんと橋本流に時評した。それはちゃんと的を得ているプロの文章だ。読ませる。でも言ってることの本質は同じだ。おかしいと思っていることに対して「おかしくなってるんだから、まずそれを受け止めようよ。そうしないと始まらないんだから。。。」そう繰り返していた。相変わらず、変な事件は起き続け、政治は変わらず、景気もよくならず、(橋本流に言うなら)昭和という時代が終わり、その廃墟が延々と存在し続けていた。でも、橋本治は「はぁ。。」とも言わず、「もうめんどくさい!」とも言わず、時評を続け、同じ事を繰り返し続けた。10年。

そしてリーマンショックは起きた。そしてちゃんと時評した。バブルの時に日本で起きた事がまた起きただけにすぎない。時代が一回りしたのだ。そして橋本治はバブルの時に書いていた事をまた書く。もちろん、橋本流だからなんだかよくわからなくなってしまうのだが、そのわからなさもまたバブルの時の文章と同じなのだ。

「何かを通したかったら、それをやり続けることだ。通らなくてもあきらめず続ける事だ。」言うは易しだが、これほど難しい事はない。あとがきで、自分はそれを続けてきただけにすぎないと橋本治は言う。でも「広告批評」という雑誌がなくならなければ、続けていたとも言う。最後のピリオドを誰かが打ってくれるまで続ける気だったようだ。

同じことをやり続けるのには、「惰性」を捨てる必要がある。

このあとがきを読んで一番ズシンときた言葉だ。一見???とも思いそうな言葉だが、社会人になった今はよく分かる言葉だ。同じ事と真剣に向き合い続けることは、想像以上にしんどい。だからこそ惰性が生まれる。でもそれは続ける事とは違うのだ。続ける為には日々気持ちを新たにしなくちゃならない。少しづつでも変わっていかなきゃいけない。そうやって惰性を捨てていかない事には、普通人は何かを続けられないものだ。

橋本治の10年越しのメッセージはちゃんと受け取った。あまり良い読者とは言えないが、これからも橋本治のメッセージを受けとるポートだけはちゃんと空けておこう。

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stars知らない人が見たらだまされるでしょう
starsこんなにすごい映画だとは・・・ 百聞は一見にしかず、驚愕の事実を深く感じ取れる作品
starsアメリカの医療制度の現状がよくわかる!
stars面白かったです
stars日本の近い将来

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今更シッコを見返す。

アメリカの健康保険制度が端的に言って「ひどい」状況である事は、別に今更にここで説明する必要もないんだけど、

HMO - Wikipedia

一応それなりに成熟した国民皆保険制度がある日本ではまあ話題にはならないから知らない人も多いかもしれない。当たり前に享受できている事が、当たり前じゃないという事に気付く為には、当たり前じゃない状況に身を置いてみるのが一番だが、わざわざ病気になって、健康の有り難さを認識しようとする人はそうそういないから。

偉そうな事言ってるが、僕もアメリカの健康保険制度の「ひどい」状況を知ったのは、人気医療ドラマ「ER」からである。医療費が支払えない為に治療を受けられない患者というのは、頻繁に用いられる設定だった。

という訳でアメリカの健康保険制度は「ひどい」。この作品は、その「ひどい」状況をなんとかしたいと思っているマイケル・ムーアのドキュメンタリー。

序盤は、そんな「ひどい」医療制度の被害者達のインタビューから、健康保険制度を民間企業に任せる事の問題点に焦点が当てられている。保険会社は、病気や怪我をした加入者に難癖をつけて、支払うべき医療費を如何にして支払わないかにしか関心がない。まあ営利を追求するのが株式会社の存在理由(資本主義的には)だから、これは当然と言えば当然の姿だが、それで命を落とす加入者は報われない。。。

こと医療(や教育)という分野に関しては、資本主義の原理は導入しない方がいい。それがこの映画の一つのテーマでもある。医療なんてそもそも営利を生み出すものではない。だって消費者たる患者は皆出来れば病院なんて行きたくないのだから。皆が健康である事が医療の究極の目標であるとすれば、それが達成された時には医療の存在価値はなくなるのだから。そこに無理に金儲けを持ち込もうとすれば、医療制度が歪になっていくのは自明の理だ。消費者たる患者から金を巻き上げようとすることは、患者に、金と命を天秤にかけろと言っているに等しい。だから殆どの国では保険制度が政府主導で運営されているのだ。そこでは如何にして金を儲けるかという事ではなく、助け合いの精神こそが意味を持つ。

中盤では、そういった政府主導の医療制度が進んだ西欧諸国(カナダ、イギリス、フランス)の実例が紹介される。ここらへんは、一応国民皆保険制度が整っている日本人が観ても衝撃を受ける。国保(国民健康保険制度)だと、たいてい自己負担金は3割だが、これらの国の医療費は基本的に全てタダだ。それに、病気や怪我で働けない期間の保障も手厚い。特にWHOのランキング一位のフランスは凄かった。

しかし、この映画で一番衝撃を受けるのは終盤だ。9.11で助け合いの精神を見せた救助スタッフやボランティアは、救助作業の際の有害粉塵の後遺症に悩み、高額な医療費の為、まともな治療を受ける事も出来ない。ムーアは、そんな彼らを(アメリカが、最も憎むべき人物のひとりカストロが作りあげた社会主義国)キューバへ連れて行く。しかし、そのキューバの医療制度は、アメリカを遙かに凌いで充実してた。肺の病を抱えた女性はアメリカでは120ドルもしていた薬が、たった5セントで買えたことに涙を流す。その後救助スタッフ達は、キューバの病院でタダで治療を受ける。受付で聞かれるのは名前と生年月日だけ。

ここで話は「チェ 28歳の革命 / 39歳別れの手紙」に連想する。

充実した医療制度は、チェ・ゲバラが目指したものの一つでもあった。それは、フィデル・カストロによって実現された訳だ。キューバの社会体制を支持する訳ではないし、経済的な問題で国民の生活は逼迫している。でも、それはチェ・ゲバラが見つけようとした未来の一つの形である事もまた事実だ。読み書きが出来て、それによって職業を得ることが出来、弱者に対しては社会の包摂性が保たれている。それは、何々主義とか仰々しい理想ではなくで、チェ・ゲバラが持っていた素朴な気持ちから来るもののように思える。

アプローチは違うかもしれないが、マイケル・ムーアのスタンスも同じ所にあると思う。「病気や怪我で苦しんでいる人間に助けが差し伸べられない(逆に金をむしり取ろうとする)制度なんて間違っているじゃないか。」この映画の基本的な主張はそれだけだ。心ある人ならこの主張に普通は反対しないだろう。そういう人としてのプリミティブな気持ちが足りなくなっている事が(そういう気持ちがお金というインセンティブが強くなりすぎた事で失われてきた事が)資本主義社会が今抱えている問題の源泉だと思う。
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