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小林秀雄の講演集の第四巻に収められた一編。
(ちなみに、全7巻。 1巻CD2枚組みで4000円。)
僕はこの講演集が好きで結構繰り返し聞く。
小林秀雄の喋りが落語みたいなので、聞いていて楽しいし、退屈しない。
なかでも、
女遊びより楽しい「学問」
という部分の、伊藤仁斎に関する話は面白い。
----------------------------------------------------------------------
伊藤仁斎は、江戸時代の思想家で、
終生どの藩にも仕官せずに、町の学者として、一生を送った人。
彼が開いた古義堂という塾の塾生は3000人にも上る。
仁斎の私塾に集まった人は、様々で、
公家や武士はもちろん、中には百姓や商人もいた。
商人といっても、時代劇なんかで出てくる悪い顔した「おぃ、越後屋」的な、
越後屋を想像されても困るので、当時の商人の状況を客観的に少し、
長者と呼ばれるには銀千貫、分限者は五百貫、金持ちは二百貫以上。銀を金に換算し、金1両を銀60匁とする。長者は1万7千両、分限者は八千両、金持ち三千両以上となる。 金一両を米一石、年貢は五公五民とすると、長者は三万五千石、分限者は一万五千石、金持ちは六千石に相当する。しかし、年貢米は籾を米にすると収量は半減するので、石高制にすると実質的に長者は七万石、分限者は三万石、金持ちは一万二千石の大名となる。こうやって具体的に数字をあげられると、江戸時代の大金持ちの町人というのは、並みの大名以上の存在だったということがよく分かります。
典拠 www.fben.jp/bookcolumn/archives/2007/01/post_1327.html
というような訳で、もう今で言う所のセレブなんて遠く及ばない位、
お金持ってた。(もちろん、こんだけの金持ちだから越後屋的な悪い顔してたかもしれない・・・)
まあ、こういう人たちが仁斎の講義を聞きに来てた訳だ。
と言っても、塾生はそんなセレブ商人ばかりでもない。
百里(≒393Km)も離れた所から、仁斎の講義目当てに来た百姓もいた。
食い物といえば背負って来た豆の袋で、講義もその豆を食いながら聞いた。
つまり、講義さえ聞ければ食い物なんて何でも良かった訳だ。
女遊びも、博打も、遊びと言う遊びを全てやり尽くした商人や、
食い物にも苦労するような貧乏な百姓が、
どうしてそんなにも仁斎の講義を聞きたかったのか?
そう、仁斎の講義が面白かったからだ。
講義を聴き終わってみると、人間というものがどうして暮らすのが正しいのか分かった様な気になる。
「人間にこんなにうれしい事はないじゃないか」 by 小林秀雄
という様な事で、当時の市井の人にとって、
学問ってのは、女あそびよりも楽しく、面白いものだった。
食い物なんてなんでも良くなるくらい魅力的なものだった。
ちなみ講義といっても、大学の講義のような畏まったものではなく、
お酒を飲んだり、ご馳走を食べながら聞く事が出来た。
内実共に、本当に楽しく面白い講義だったと推察する。
----------------------------------------------------------------------
時は、西暦2008年。
みなさん、大学の講義は面白かったですか?
勉強を楽しいと思って寝食を忘れた事がありますか?
僕はない。
少なくとも義務教育や、それ以降の教育課程において、
何をおいても勉強が楽しいなんて思った事はない。
むしろ、それは如何にして学ぶ事(覚えさせられる事)から逃避するかを考える日々だった。
ウンザリだ。ホントに。
でも、そんな日々の中でも自発的に興味を持った事は積極的に学んできた。
もう、それこそ寝食忘れて本に没頭した事もあった。
学ぶことが楽しくて仕方がないという経験も何度もした。
そして、そういう時の幸福な気持ちを、また体験したいと思うし、
その為に、今でも本を読み漁り続けている訳だ。
必要があればどんな分厚い専門書だって、希少な古書だって買うし読む訳だ。
知性を備えた動物である人間にとって、
学びたい、知りたい、学問をしたいという思うのはごく自然な事なのだ。
ほっといても、自然に生まれる感情なのだ。
学問したいという気持ちは、江戸時代の水呑百姓だって持ってるし、
電車でウンコ座りしているスーパーサイヤ人みたいな頭した高校生も持っている本能なのだ。
でも、スーパーサイヤ人高校生は、豆の袋背負って塾なんか行かない。(そもそも学校にすら行かない)
むしろ、彼らには、女遊びのが学問なんかよりは遥かに面白そうだ。
どうしてそんな事になったのか?
「学問をしたいと思うのが本能じゃなくなったのは、現代くらいのもんです。」 by 小林秀雄
続いて、小林秀雄はこんなエピソードを語る。
江戸時代の水呑百姓は、もちろん誰も学問なんか教えてくれないし、義務もない。
だから、子供の頃に「人生とは何ぞや」という疑問が生じたら、その疑問は熱烈なものになって、
それを教えてくれる先生が京都にいるとなれば、百里の道を遠しとせずに京都まで行った。
こんな話の展開だと、僕がまるで「教育なんて止めちまえ!」
と言ってるように受け取られるかもしれないが、
もちろん、そうじゃない。この物質的に飽和した高度資本主義社会の現代日本において、
教育を受けなかったら、それこそ生きて行けない。
スーパーサイヤ人だって、インフレバトル漫画の中で生き残って行けない。
江戸の時代の学問の起点となった中江藤樹もまた、
伯耆国(現鳥取県)の水呑百姓として生まれた。
そして、士農工商全ての身分の人々から「近江聖人」と呼ばれるまでになった。
もちろん、現代の高校生と近江聖人を比べてもしょうがないけれども、
そこには、学問(学ぶ事)に対する徹底的な違いがある。
それはさっきも書いた、学問に対する渇望だ。
藤樹にはそれがあり、現代高校生にはそれがない。
でも、ホントは現代高校生にだってそれはあるのだ。
ただ、文部省が作った、彼らの本能をげんなりさせるような教育指導要領や、
高圧的な態度で教育に臨む一部教師
(僕が学んだ多くの教師はそうだった。もちろんそうでない先生もいた)
によって、その本能はどんどん小さなものなっていく。
それだけじゃない、現代には、伯耆国の水呑百姓とは比べ物にならないくらい
楽しい誘惑が一杯ある。テレビ、ケータイ、ネット、ゲーム、etc、挙げるまでもないだろう。
話が逸れまくった。焦点がボケた。戻そう。
仁斎の私塾の話だ。
今と300年前では「学問」という言葉の指す意味が、
全く違っているから、話がブレるんだろう。
現代の「学問」てのは、アカデミズムのエイリアスで、
市井の人にとって、アカデミズムなんて、全く生活に関係ない。
少なくともそんな事知らなくても、人生において特に痛痒は感じない。
別の講演集で小林秀雄も言っていたが、
大学の先生に、
「先生、人生とはなんですか?」と聞いても、先生は答えてくれない。
そんな質問に答える義務もないし、「俺の仕事は研究だ」と言うだろう。
現代の学問とは、そういう所まで行ってしまったのだ。
でも、300年前は違う。
仁斎先生に、同じ質問をぶつけれれば、
講義という形でそれに答えてくれた。それが当時の学者の矜持であり、義務だったからだ。
だから上に挙げた様な、様々な背景の人たちが集まったのだ。
女遊びや、博打をやりつくした商人にだって、
「人生とは何ぞや」という事について知りたいという渇望はなくならないから。
300年後の現在だって、同じ事だ。科学や文化は進歩しても、
人間の本質はそんなに簡単には変わらない。
今だって、みんな生きる意味について知りたがっている。
だから、三輪明宏や、江原啓之のスピリチュアルな説教がアレだけ支持されているんだろう。
でも、仁斎の講義と、現代スピリチュアル説教は、
その動機やスタンスにおいて全く性質が異なるものだ。
ふぅ、結構書いたな・・・・。
まあ僕が帰りの横須賀線の中で講演集聞きながら思った事は大体書けたと思うので、
もうこれ以上書かないけど(もう深夜1時だから)、ここまで読んでくれた人に何か伝わったのかしらん。
(ちなみに、全7巻。 1巻CD2枚組みで4000円。)
僕はこの講演集が好きで結構繰り返し聞く。
小林秀雄の喋りが落語みたいなので、聞いていて楽しいし、退屈しない。
なかでも、
女遊びより楽しい「学問」
という部分の、伊藤仁斎に関する話は面白い。
----------------------------------------------------------------------
伊藤仁斎は、江戸時代の思想家で、
終生どの藩にも仕官せずに、町の学者として、一生を送った人。
彼が開いた古義堂という塾の塾生は3000人にも上る。
仁斎の私塾に集まった人は、様々で、
公家や武士はもちろん、中には百姓や商人もいた。
商人といっても、時代劇なんかで出てくる悪い顔した「おぃ、越後屋」的な、
越後屋を想像されても困るので、当時の商人の状況を客観的に少し、
長者と呼ばれるには銀千貫、分限者は五百貫、金持ちは二百貫以上。銀を金に換算し、金1両を銀60匁とする。長者は1万7千両、分限者は八千両、金持ち三千両以上となる。 金一両を米一石、年貢は五公五民とすると、長者は三万五千石、分限者は一万五千石、金持ちは六千石に相当する。しかし、年貢米は籾を米にすると収量は半減するので、石高制にすると実質的に長者は七万石、分限者は三万石、金持ちは一万二千石の大名となる。こうやって具体的に数字をあげられると、江戸時代の大金持ちの町人というのは、並みの大名以上の存在だったということがよく分かります。
典拠 www.fben.jp/bookcolumn/archives/2007/01/post_1327.html
というような訳で、もう今で言う所のセレブなんて遠く及ばない位、
お金持ってた。(もちろん、こんだけの金持ちだから越後屋的な悪い顔してたかもしれない・・・)
まあ、こういう人たちが仁斎の講義を聞きに来てた訳だ。
と言っても、塾生はそんなセレブ商人ばかりでもない。
百里(≒393Km)も離れた所から、仁斎の講義目当てに来た百姓もいた。
食い物といえば背負って来た豆の袋で、講義もその豆を食いながら聞いた。
つまり、講義さえ聞ければ食い物なんて何でも良かった訳だ。
女遊びも、博打も、遊びと言う遊びを全てやり尽くした商人や、
食い物にも苦労するような貧乏な百姓が、
どうしてそんなにも仁斎の講義を聞きたかったのか?
そう、仁斎の講義が面白かったからだ。
講義を聴き終わってみると、人間というものがどうして暮らすのが正しいのか分かった様な気になる。
「人間にこんなにうれしい事はないじゃないか」 by 小林秀雄
という様な事で、当時の市井の人にとって、
学問ってのは、女あそびよりも楽しく、面白いものだった。
食い物なんてなんでも良くなるくらい魅力的なものだった。
ちなみ講義といっても、大学の講義のような畏まったものではなく、
お酒を飲んだり、ご馳走を食べながら聞く事が出来た。
内実共に、本当に楽しく面白い講義だったと推察する。
----------------------------------------------------------------------
時は、西暦2008年。
みなさん、大学の講義は面白かったですか?
勉強を楽しいと思って寝食を忘れた事がありますか?
僕はない。
少なくとも義務教育や、それ以降の教育課程において、
何をおいても勉強が楽しいなんて思った事はない。
むしろ、それは如何にして学ぶ事(覚えさせられる事)から逃避するかを考える日々だった。
ウンザリだ。ホントに。
でも、そんな日々の中でも自発的に興味を持った事は積極的に学んできた。
もう、それこそ寝食忘れて本に没頭した事もあった。
学ぶことが楽しくて仕方がないという経験も何度もした。
そして、そういう時の幸福な気持ちを、また体験したいと思うし、
その為に、今でも本を読み漁り続けている訳だ。
必要があればどんな分厚い専門書だって、希少な古書だって買うし読む訳だ。
知性を備えた動物である人間にとって、
学びたい、知りたい、学問をしたいという思うのはごく自然な事なのだ。
ほっといても、自然に生まれる感情なのだ。
学問したいという気持ちは、江戸時代の水呑百姓だって持ってるし、
電車でウンコ座りしているスーパーサイヤ人みたいな頭した高校生も持っている本能なのだ。
でも、スーパーサイヤ人高校生は、豆の袋背負って塾なんか行かない。(そもそも学校にすら行かない)
むしろ、彼らには、女遊びのが学問なんかよりは遥かに面白そうだ。
どうしてそんな事になったのか?
「学問をしたいと思うのが本能じゃなくなったのは、現代くらいのもんです。」 by 小林秀雄
続いて、小林秀雄はこんなエピソードを語る。
江戸時代の水呑百姓は、もちろん誰も学問なんか教えてくれないし、義務もない。
だから、子供の頃に「人生とは何ぞや」という疑問が生じたら、その疑問は熱烈なものになって、
それを教えてくれる先生が京都にいるとなれば、百里の道を遠しとせずに京都まで行った。
こんな話の展開だと、僕がまるで「教育なんて止めちまえ!」
と言ってるように受け取られるかもしれないが、
もちろん、そうじゃない。この物質的に飽和した高度資本主義社会の現代日本において、
教育を受けなかったら、それこそ生きて行けない。
スーパーサイヤ人だって、インフレバトル漫画の中で生き残って行けない。
江戸の時代の学問の起点となった中江藤樹もまた、
伯耆国(現鳥取県)の水呑百姓として生まれた。
そして、士農工商全ての身分の人々から「近江聖人」と呼ばれるまでになった。
もちろん、現代の高校生と近江聖人を比べてもしょうがないけれども、
そこには、学問(学ぶ事)に対する徹底的な違いがある。
それはさっきも書いた、学問に対する渇望だ。
藤樹にはそれがあり、現代高校生にはそれがない。
でも、ホントは現代高校生にだってそれはあるのだ。
ただ、文部省が作った、彼らの本能をげんなりさせるような教育指導要領や、
高圧的な態度で教育に臨む一部教師
(僕が学んだ多くの教師はそうだった。もちろんそうでない先生もいた)
によって、その本能はどんどん小さなものなっていく。
それだけじゃない、現代には、伯耆国の水呑百姓とは比べ物にならないくらい
楽しい誘惑が一杯ある。テレビ、ケータイ、ネット、ゲーム、etc、挙げるまでもないだろう。
話が逸れまくった。焦点がボケた。戻そう。
仁斎の私塾の話だ。
今と300年前では「学問」という言葉の指す意味が、
全く違っているから、話がブレるんだろう。
現代の「学問」てのは、アカデミズムのエイリアスで、
市井の人にとって、アカデミズムなんて、全く生活に関係ない。
少なくともそんな事知らなくても、人生において特に痛痒は感じない。
別の講演集で小林秀雄も言っていたが、
大学の先生に、
「先生、人生とはなんですか?」と聞いても、先生は答えてくれない。
そんな質問に答える義務もないし、「俺の仕事は研究だ」と言うだろう。
現代の学問とは、そういう所まで行ってしまったのだ。
でも、300年前は違う。
仁斎先生に、同じ質問をぶつけれれば、
講義という形でそれに答えてくれた。それが当時の学者の矜持であり、義務だったからだ。
だから上に挙げた様な、様々な背景の人たちが集まったのだ。
女遊びや、博打をやりつくした商人にだって、
「人生とは何ぞや」という事について知りたいという渇望はなくならないから。
300年後の現在だって、同じ事だ。科学や文化は進歩しても、
人間の本質はそんなに簡単には変わらない。
今だって、みんな生きる意味について知りたがっている。
だから、三輪明宏や、江原啓之のスピリチュアルな説教がアレだけ支持されているんだろう。
でも、仁斎の講義と、現代スピリチュアル説教は、
その動機やスタンスにおいて全く性質が異なるものだ。
ふぅ、結構書いたな・・・・。
まあ僕が帰りの横須賀線の中で講演集聞きながら思った事は大体書けたと思うので、
もうこれ以上書かないけど(もう深夜1時だから)、ここまで読んでくれた人に何か伝わったのかしらん。
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一体何が言いたいんだこの映画は・・・?
という映画は、まあ、少なくない訳だが、
この「ジャンパー」は、そうった作品を超越して、全く理解できなった・・・。
主人公へイデン君は、「瞬間移動」という超能力を手に入れて、
誰もが通過すべき青春時代の忸怩たる想いをすっ飛ばし、
銀行強盗に、ガールハントにやりたい放題。
通過儀礼をすっ飛ばしてしまった青年の常として、まったく成長しないステロタイプのお馬鹿さん。
しかもアホなので、手に入れた特殊能力を無闇に浪費。
そんなヘイデン君に天罰を下だし、己の身の丈を思い知らせる為、
サミュエル・L・ジャクソン先生率いるジャンパー駆除チームが動き出す。
で、すったもんだの末、ヘイデン君は、
協力してくれた仲間のジャンパーを犠牲にし(ひどい)、ジャンパー駆除チームを撃退する。
でもって、幼馴染の美人のガールフレンドと結ばれて、特殊能力をすき放題使って、
ハッピーな人生を謳歌して行く。というお話。
ええ~、皆さん。僕の言いたい事分かりますか?
そうです。この映画に1800円も払ってはいけません。
あなたが、
物語りとは、人生についての「何か」を語り、
主人公はその中で、少なからず「成長」するものだと思っているならば、
映画館を出た後深く困惑する事でしょう。
ちなみに、この映画の制作費は約100億円。
こういう映画が製作される一方で、
ハリウッドの脚本家達は、汚いシャツにチノパン穿いて、
プラカードもって一生懸命ストしている訳だから、
アメリカ映画業界というもの相当歪だな~とは思う。
だってトム・クルーズなんてあんな大根なのに、
ギャラは映画1本7000万ドルとか貰ってんだぜ。
という映画は、まあ、少なくない訳だが、
この「ジャンパー」は、そうった作品を超越して、全く理解できなった・・・。
主人公へイデン君は、「瞬間移動」という超能力を手に入れて、
誰もが通過すべき青春時代の忸怩たる想いをすっ飛ばし、
銀行強盗に、ガールハントにやりたい放題。
通過儀礼をすっ飛ばしてしまった青年の常として、まったく成長しないステロタイプのお馬鹿さん。
しかもアホなので、手に入れた特殊能力を無闇に浪費。
そんなヘイデン君に天罰を下だし、己の身の丈を思い知らせる為、
サミュエル・L・ジャクソン先生率いるジャンパー駆除チームが動き出す。
で、すったもんだの末、ヘイデン君は、
協力してくれた仲間のジャンパーを犠牲にし(ひどい)、ジャンパー駆除チームを撃退する。
でもって、幼馴染の美人のガールフレンドと結ばれて、特殊能力をすき放題使って、
ハッピーな人生を謳歌して行く。というお話。
ええ~、皆さん。僕の言いたい事分かりますか?
そうです。この映画に1800円も払ってはいけません。
あなたが、
物語りとは、人生についての「何か」を語り、
主人公はその中で、少なからず「成長」するものだと思っているならば、
映画館を出た後深く困惑する事でしょう。
ちなみに、この映画の制作費は約100億円。
こういう映画が製作される一方で、
ハリウッドの脚本家達は、汚いシャツにチノパン穿いて、
プラカードもって一生懸命ストしている訳だから、
アメリカ映画業界というもの相当歪だな~とは思う。
だってトム・クルーズなんてあんな大根なのに、
ギャラは映画1本7000万ドルとか貰ってんだぜ。
2007年 本の雑誌が選ぶ文庫本ベスト1 & ダ・ヴィンチ ブック・オブ・ザ・イヤー2007(文庫)
に選ばれた本書。
今の所、
「精霊の守り人」
「闇の守り人」
「夢の守り人」
の三巻まで、新潮文庫になっている。
元は児童文学で、既に全10巻が完結している「守り人」シリーズ。
去年には1巻目の「精霊の守り人」がアニメ化されいる。(かなりの完成度の作品だった。詳細はそのうち)
とりあえず、3巻までをまとめ買いしてチビチビ読もうと思ってたんだが、
面白くて、3日で3巻一気に読んでしまった。
文章のリズムがよく、スイスイ読めるし、ストーリーテリングも巧みだ。
何より、世界観や登場人物達が非常に魅力的で一気に引き込まれる。
著者は文化人類学者だから、細かい文化的な設定もしっかりしている。
読み終えて、改めて、奇抜さや、小手先の技巧性ではなく、
物語の骨子そのもの魅力について考えさせられる。
これだけの完成度のファンタジーが日本語で読めるのが単純に嬉しい。
そして、次巻の文庫化が待ち遠しい。
に選ばれた本書。
今の所、
「精霊の守り人」
「闇の守り人」
「夢の守り人」
の三巻まで、新潮文庫になっている。
元は児童文学で、既に全10巻が完結している「守り人」シリーズ。
去年には1巻目の「精霊の守り人」がアニメ化されいる。(かなりの完成度の作品だった。詳細はそのうち)
とりあえず、3巻までをまとめ買いしてチビチビ読もうと思ってたんだが、
面白くて、3日で3巻一気に読んでしまった。
文章のリズムがよく、スイスイ読めるし、ストーリーテリングも巧みだ。
何より、世界観や登場人物達が非常に魅力的で一気に引き込まれる。
著者は文化人類学者だから、細かい文化的な設定もしっかりしている。
読み終えて、改めて、奇抜さや、小手先の技巧性ではなく、
物語の骨子そのもの魅力について考えさせられる。
これだけの完成度のファンタジーが日本語で読めるのが単純に嬉しい。
そして、次巻の文庫化が待ち遠しい。
昨年2月23日に亡くなられてから、
もう一年になるのか・・・。
池田晶子
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90
wikiの記述が、以前よりも充実してきている。
客観的な記述ながらも、故池田晶子に対する想いが僅かに感じ取れる。
確か、僕が熱心に彼女の本を買い求めた時は、
いくつかの著書は絶版に近い状態で、手に入れるのも難しいものもあったな。そういえば。
どれも良い本なだけに、版を重ねていると聞くと嬉しいものだ。
そして、今日
川上未映子氏が、
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%98%A0%E5%AD%90
www.mieko.jp/blog/2008/02/nobody_fe6c.html
池田晶子が言っていた「魂のリレー」という言葉をふと思い出す。
池田さん、あなたが小林秀雄や埴谷 雄高から受け取ったバトンは、
ちゃんと、次の世代に受け継がれてますよ。
もう一年になるのか・・・。
池田晶子
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90
wikiの記述が、以前よりも充実してきている。
客観的な記述ながらも、故池田晶子に対する想いが僅かに感じ取れる。
確か、僕が熱心に彼女の本を買い求めた時は、
いくつかの著書は絶版に近い状態で、手に入れるのも難しいものもあったな。そういえば。
どれも良い本なだけに、版を重ねていると聞くと嬉しいものだ。
そして、今日
川上未映子氏が、
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%98%A0%E5%AD%90
www.mieko.jp/blog/2008/02/nobody_fe6c.html
池田晶子記念 「わたくし、つまりNOBODY賞」
を受賞された様だ。池田晶子が言っていた「魂のリレー」という言葉をふと思い出す。
池田さん、あなたが小林秀雄や埴谷 雄高から受け取ったバトンは、
ちゃんと、次の世代に受け継がれてますよ。
まあ、あれなんだな。
結局の所、
1. 他人に見せるための資料がありません。つまり、マネージャーと顧客は資料に目を通していません。
2. 他人に見せるための仕様書がありません。つまり、SEとプログラマは仕様書のレビューを行っていません。
3. 他人に見せるためのコードがありません。つまり、SEとプログラマはコード・レビューを行っていません。
4. 誰も新しい人員を教育しません。つまり、新しい人員を教育することでトータルの開発時間を短縮できるとい う考えがありません。
出典
www.hyuki.com/yukiwiki/wiki.cgi
という様な、状況に投入されたPGは、どうすべきか?
という問いを7ヶ月程続けて、色々試したが、やっぱ分からん・・・。
(自分の関わる範囲では、防衛的なプログラミングする。最低限必要な資料を残す。くらいが現実的な対策だが、まあやっぱり限界はある。)
とりあえず、もう一度「人月の神話」でも読んで寝る。
全然関係ないけど、笑えた。
soc.2log.net/monasouken/archives/blog185.html
結局の所、
1. 他人に見せるための資料がありません。つまり、マネージャーと顧客は資料に目を通していません。
2. 他人に見せるための仕様書がありません。つまり、SEとプログラマは仕様書のレビューを行っていません。
3. 他人に見せるためのコードがありません。つまり、SEとプログラマはコード・レビューを行っていません。
4. 誰も新しい人員を教育しません。つまり、新しい人員を教育することでトータルの開発時間を短縮できるとい う考えがありません。
出典
www.hyuki.com/yukiwiki/wiki.cgi
という様な、状況に投入されたPGは、どうすべきか?
という問いを7ヶ月程続けて、色々試したが、やっぱ分からん・・・。
(自分の関わる範囲では、防衛的なプログラミングする。最低限必要な資料を残す。くらいが現実的な対策だが、まあやっぱり限界はある。)
とりあえず、もう一度「人月の神話」でも読んで寝る。
全然関係ないけど、笑えた。
soc.2log.net/monasouken/archives/blog185.html
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