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が、ニュースステーションに出てた。
学生の時に一時期ハマッて読んだな。
これ「古武術の発見―日本人にとって「身体」とは何か (文庫) 」とか
これ「古武術からの発想 (PHP文庫) (文庫) 」とか
これ「武術の新・人間学―温故知新の身体論 (文庫) 」とか
これ「自分の頭と身体で考える (文庫) 」
多分、頭のいい人にはかなり胡散臭い本だが、僕はアタマワルイ学生だったので、面白く読んだ。「頭いい」というのも、枠組み問題だよな・・・。とアタマワルイ僕なんかは未だに思っている。
学生の時に一時期ハマッて読んだな。
これ「古武術の発見―日本人にとって「身体」とは何か (文庫) 」とか
これ「古武術からの発想 (PHP文庫) (文庫) 」とか
これ「武術の新・人間学―温故知新の身体論 (文庫) 」とか
これ「自分の頭と身体で考える (文庫) 」
多分、頭のいい人にはかなり胡散臭い本だが、僕はアタマワルイ学生だったので、面白く読んだ。「頭いい」というのも、枠組み問題だよな・・・。とアタマワルイ僕なんかは未だに思っている。
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ある意味では、映画という枠組みを大きく逸脱している。
今夏最大問題作という事になると思う。本来なら、何の事前情報も得ずに劇場に直行して欲しい映画ではあるので、出来れば、以下の内容は、本作を観た後読んでください。ただし、大きな精神的ショックを受ける映画なので、見る際はある程度の覚悟を持って鑑賞に望むように。
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この映画のテーマは「自殺」。あの有名なロスのゴールデンゲートブリッジで、自ら命を絶った人と、その遺族、友人達のインタビューで構成された映画である。当然、命を絶つ瞬間の映像も納められている。その事が、この映画が今夏(というか映画史上最大の)問題作たらしめている。
初めに断っておくが、この映画の製作スタッフは、ゴールデンゲートブリッジに張り込んで、ただ漫然と自殺する人を待っていた訳ではない。監督はインタビューで次の様に答えている。
「撮影前に、スタッフのみんなでルールを決めたんだ。われわれはフィルムメーカーである前に一人の人間なのだから、誰かが柵に足をかけたときにはすぐに通報しようってね。」
実際、彼らの通報で6人の命が救われた。さらに、制作中は、インタビューを行った遺族や、友人達にも、その撮影の目的を伝えなかった。撮影を知り、それで自殺を志す人を生まない為に、どのような機関にも撮影の事は伝えなかった。(もちろん、それで遺族との間に軋轢も生まれる事もあったという)。映画が悪戯に自殺を助長しない様に細心の注意を払って制作が行われていた事は、監督始めスタッフの名誉の為に言っておく。
しかし、それでも全ての自殺を止める事は出来なかった。それは、表情や行動だけからは、その人が自殺を考えているのかどうか見極める事が出来なかったからだと言う。
ゴールデンゲートブリッジの自殺者数は世界最多で、現在までに1300人以上の方が、あの橋で命を絶っている。監督は、なぜゴールデンゲートブリッジが最後の場所としてこれほどまで選ばれるのか以下の様に語っている。
「交通の往来が多く、それまで自殺が多発した場所を選ぶのは、止めてほしいという感情のかけらがあり、また、誰かとつながりたいというかすかな望みの現れではないでしょうか」
また、監督の撮影意図は次のインタンビューの問答に集約されている。
――自殺者そのものを撮影しようというアイデアは、いったいどうやって思いついたんですか? また、本当に実行しようと思った理由は?
だからこそ
食い止める事が出来る自殺だってある。恐らく、この映画のスタンスはそのあたりにあるのだと思う。この映画の中心的な人物に据えられているジーンという自殺者の遺族は、「愛されているという自覚があれば助かったかも」と語る。それは、もしかしたら食い止める事が出来る自殺の一つだ。
自殺は、世界共通のタブーとされているが、ある意味では、タブーである事が、自殺を考える人から近親者への相談の機会を奪い、退路を断ち、自殺に追い込んでいる場合だってあるはずで、それは確実に止める事が出来、変える事が出来る。その意味で、この映画が製作された事の社会的意義は大きいと思う。この映画はタブーに対して、しっかり向き合い、そういう可能性がちゃんとある事を示唆した訳だから。
自殺という問題に真剣に取り組むのは、社会というものが機能する上で、最低限の責任であるのかもしれない。
参考にしたページ(主に監督のインタビュー)
www.cinemacafe.net/news/cgi/interview/2007/06/1970/
www.pia.co.jp/cinema/tokusyu/interview/070615_bridge/interview.html
www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/cinema/archive/news/2007/06/20070607org00m200105000c.html
www.asahi.com/culture/movie/TKY200705280322.html
公式
the-bridge-movie.com/
今夏最大問題作という事になると思う。本来なら、何の事前情報も得ずに劇場に直行して欲しい映画ではあるので、出来れば、以下の内容は、本作を観た後読んでください。ただし、大きな精神的ショックを受ける映画なので、見る際はある程度の覚悟を持って鑑賞に望むように。
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この映画のテーマは「自殺」。あの有名なロスのゴールデンゲートブリッジで、自ら命を絶った人と、その遺族、友人達のインタビューで構成された映画である。当然、命を絶つ瞬間の映像も納められている。その事が、この映画が今夏(というか映画史上最大の)問題作たらしめている。
初めに断っておくが、この映画の製作スタッフは、ゴールデンゲートブリッジに張り込んで、ただ漫然と自殺する人を待っていた訳ではない。監督はインタビューで次の様に答えている。
「撮影前に、スタッフのみんなでルールを決めたんだ。われわれはフィルムメーカーである前に一人の人間なのだから、誰かが柵に足をかけたときにはすぐに通報しようってね。」
実際、彼らの通報で6人の命が救われた。さらに、制作中は、インタビューを行った遺族や、友人達にも、その撮影の目的を伝えなかった。撮影を知り、それで自殺を志す人を生まない為に、どのような機関にも撮影の事は伝えなかった。(もちろん、それで遺族との間に軋轢も生まれる事もあったという)。映画が悪戯に自殺を助長しない様に細心の注意を払って制作が行われていた事は、監督始めスタッフの名誉の為に言っておく。
しかし、それでも全ての自殺を止める事は出来なかった。それは、表情や行動だけからは、その人が自殺を考えているのかどうか見極める事が出来なかったからだと言う。
ゴールデンゲートブリッジの自殺者数は世界最多で、現在までに1300人以上の方が、あの橋で命を絶っている。監督は、なぜゴールデンゲートブリッジが最後の場所としてこれほどまで選ばれるのか以下の様に語っている。
「交通の往来が多く、それまで自殺が多発した場所を選ぶのは、止めてほしいという感情のかけらがあり、また、誰かとつながりたいというかすかな望みの現れではないでしょうか」
また、監督の撮影意図は次のインタンビューの問答に集約されている。
――自殺者そのものを撮影しようというアイデアは、いったいどうやって思いついたんですか? また、本当に実行しようと思った理由は?
自殺って、表立って議論することすらはばかれるような、世界的にも大きなタブーだと思うんだ。それに自殺って普通、カギのかかったバスルームや寝室、倉庫 や森の中なんかで行われるから、普通なら他人が目にすることができないよね。でもゴールデンゲートブリッジの場合は、状況がまったく違うんだ。あの橋はさ んさんと太陽に照らされた国の記念碑、言うなればアメリカの宝なのに、白昼堂々と自殺が行われている。僕はこの特殊な“公共的な自殺”を描くことで、もっ と大きな視点から、われわれ自身が決して触れたがらない心の暗い一角を探索するができると考えたんだ。自殺については、きっと誰もが一度くらいは自殺が頭 をよぎったことがあるだろうし、絶望という感情も非常に普遍的なもの。人によっては右から左へ通り過ぎる程度かも知れないけれど、一度目撃したり真剣に考 えたりすれば、もはや一晩寝て忘れられるようなことじゃなくなり、“自殺”という概念に取り憑かれてしまうんだ。
と、ここから個人的な感想を書こうと思っていたんだけど、止めた。この映画を自殺という一般論に敷衍して考えようと思ったのだけれど、一般論としての自殺なんて、何の意味もない。という事をこの映画は言っている訳だから。当たり前だが、人が自殺に至る理由は様々で、その原因は人の数だけある。もちろん、社会にその責任が還元されるべき自殺もあるし、精神的疾患が原因の自殺もあるだろう。でも、そうじゃない自殺もある。また、全ての自殺が罪だとも、悪だとも思わない。正当な自殺なんてものがあるわけじゃないが、全ての自殺が不当だとは考えない。だからこそ
食い止める事が出来る自殺だってある。恐らく、この映画のスタンスはそのあたりにあるのだと思う。この映画の中心的な人物に据えられているジーンという自殺者の遺族は、「愛されているという自覚があれば助かったかも」と語る。それは、もしかしたら食い止める事が出来る自殺の一つだ。
自殺は、世界共通のタブーとされているが、ある意味では、タブーである事が、自殺を考える人から近親者への相談の機会を奪い、退路を断ち、自殺に追い込んでいる場合だってあるはずで、それは確実に止める事が出来、変える事が出来る。その意味で、この映画が製作された事の社会的意義は大きいと思う。この映画はタブーに対して、しっかり向き合い、そういう可能性がちゃんとある事を示唆した訳だから。
自殺という問題に真剣に取り組むのは、社会というものが機能する上で、最低限の責任であるのかもしれない。
参考にしたページ(主に監督のインタビュー)
www.cinemacafe.net/news/cgi/interview/2007/06/1970/
www.pia.co.jp/cinema/tokusyu/interview/070615_bridge/interview.html
www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/cinema/archive/news/2007/06/20070607org00m200105000c.html
www.asahi.com/culture/movie/TKY200705280322.html
公式
the-bridge-movie.com/
ジェイク・ギレンホールが良い。
デヴィッド・フィンチャー最新作。この監督が嫌いな僕としては、かなり懐疑的な態度で鑑賞したのだけど、あまり期待していなかったせいか、フィンチャー作品としては過去最高の出来だった。もっとも、それは主演のジェイク・ギレンホールの魅力に拠る所が大きい訳だけれども・・・。
ゾディアックというのは、アメリカ史上に残る連続殺人犯で、マスメディアを巻き込んだ劇場型犯罪の元祖でもある。尚、ゾディアック事件は、現在も未解決のまま。本作は、そんなゾディアック事件の解決に挑んだロバート・グレイスミス(作中のジェイク・ギレンホール)のノンフィクション「ゾディアック」をベースにしたもの。
フィンチャーが狙ったのは、多分、このゾディアック事件の新たな解釈を提示する事で、作中では真犯人をしっかりと示している。また、別の可能性も示唆するようなシークエンスもあるが、これ以上はネタばれになるので・・・。
でも、その様な監督の意図とは別の部分でこの作品は素晴らしかった。それがジェイク・ギレンホールが、ゾディアック事件にのめり込んでいくシークエンスだ。彼は、世間がもはや忘れてしまったゾディアック事件の解決の為の調査に殆ど一人で取り組み、仕事を辞め、家庭の崩壊も省みない。はっきり言ってこのシークエンスがこの映画の最大の見所だ。ともかく、ジェイク・ギレンホールが素晴らしく、ゾディアックよりも、このグレイスミスの生涯の方に強く興味を惹かれてしまう。よって、このシークエンスが終わり、また、ゾディアック事件の謎解きに話が戻ると、なんとんなく肩透かしを食らったような気分になる。
他の脇役陣もみな好演を見せる。特に、事件の捜査にあたるマーク・ラファロ、アンソニー・エドワーズ(グリーン先生!!!)が素晴らしい。彼らのゾディアック事件に翻弄されていく様も、また興味を惹く。
もちろん、監督にも、彼らの人生を描くという意図はあっただろうが、ここまでやるんだったら、もうちょっと別の描き方があるんじゃないかと思う。しかも、最後に判明する真犯人が、これまた魅力に欠ける人物で、はっきり言って、先に挙げた3人比べると、実につまらないちっちゃい男にしか見えない。そんな訳で、最後が全然締まらない。ここら辺がもう少しなんとかなってれば、文句なしに素晴らしい映画だったんだけどなぁ・・・。
とりあえず、ジェイク・ギレンホールが一人だけが得をしていた。
デヴィッド・フィンチャー最新作。この監督が嫌いな僕としては、かなり懐疑的な態度で鑑賞したのだけど、あまり期待していなかったせいか、フィンチャー作品としては過去最高の出来だった。もっとも、それは主演のジェイク・ギレンホールの魅力に拠る所が大きい訳だけれども・・・。
ゾディアックというのは、アメリカ史上に残る連続殺人犯で、マスメディアを巻き込んだ劇場型犯罪の元祖でもある。尚、ゾディアック事件は、現在も未解決のまま。本作は、そんなゾディアック事件の解決に挑んだロバート・グレイスミス(作中のジェイク・ギレンホール)のノンフィクション「ゾディアック」をベースにしたもの。
フィンチャーが狙ったのは、多分、このゾディアック事件の新たな解釈を提示する事で、作中では真犯人をしっかりと示している。また、別の可能性も示唆するようなシークエンスもあるが、これ以上はネタばれになるので・・・。
でも、その様な監督の意図とは別の部分でこの作品は素晴らしかった。それがジェイク・ギレンホールが、ゾディアック事件にのめり込んでいくシークエンスだ。彼は、世間がもはや忘れてしまったゾディアック事件の解決の為の調査に殆ど一人で取り組み、仕事を辞め、家庭の崩壊も省みない。はっきり言ってこのシークエンスがこの映画の最大の見所だ。ともかく、ジェイク・ギレンホールが素晴らしく、ゾディアックよりも、このグレイスミスの生涯の方に強く興味を惹かれてしまう。よって、このシークエンスが終わり、また、ゾディアック事件の謎解きに話が戻ると、なんとんなく肩透かしを食らったような気分になる。
他の脇役陣もみな好演を見せる。特に、事件の捜査にあたるマーク・ラファロ、アンソニー・エドワーズ(グリーン先生!!!)が素晴らしい。彼らのゾディアック事件に翻弄されていく様も、また興味を惹く。
もちろん、監督にも、彼らの人生を描くという意図はあっただろうが、ここまでやるんだったら、もうちょっと別の描き方があるんじゃないかと思う。しかも、最後に判明する真犯人が、これまた魅力に欠ける人物で、はっきり言って、先に挙げた3人比べると、実につまらないちっちゃい男にしか見えない。そんな訳で、最後が全然締まらない。ここら辺がもう少しなんとかなってれば、文句なしに素晴らしい映画だったんだけどなぁ・・・。
とりあえず、ジェイク・ギレンホールが一人だけが得をしていた。
仕事柄(SE)、日々勉強である。まだひよっこであるからして、精進である。
とはいえ、学ぶ事は楽しい。特に、未知の世界に足を踏み入れる時は楽しい。
もちろん、半分仕事なので(半分じゃマズイか・・・)、1~10まで全部楽しいとはいかないが、
どんな仕事でも、興味を持てるポイントが一つでも見つかれば、人間は嬉々として取り組む。
面白いと思ったら、大抵の困難は乗り越える。人間の好奇心、驚くべき哉。
でも、ホントは、学んでいる対象に、哲学とか、情熱とか言うべき、
あからさまに語っちゃうと恥ずかしいものが見つかった時が、一番楽しい。
端的に言って、感動さえする。
この感動は、人を好きになる時の感覚にちょっと似ている。
そういう時、ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、この世界の可能性とでも言うべきものを感じる事になる。世の中がっくりする事・人が多いけど(もちろん僕もいろんな人をがっかりさせてはいるけれども・・・ごめんなさい)、そんな中で、そんな些細な出来事で、この世界在り方をもう少し信じる事が出来たりする。
要するに生き方の問題なんだろうと思う。人間、長く生きれば生きる程、情熱とか夢を持ち続ける事が難しくなる。その種のものをしっかり持っていると、世の中に出てから変な所で損するし、要領よく切り抜ければいい所で、変に意地を張って苦労する事になる。だから、生きてく中で、自分の中のそういうものたちを少しずつ減らしていかなければならないし、ほっといても、勝手に削れていく。丸くなる。
でも、自分が本気で信じているものたちはそんな簡単にはいなくならないし、消えない。それが消えたら、自分というもの根拠が無くなるようなものたちだからこそ、人はそれを本気で信じる訳だし、それは自分と世界を分節する分水嶺だとさえ思う。自意識の権威であるかのデカルト翁ですら、この「信じる」という言葉の不可思議を説明する事が出来なかった。というのは有名な話・・・でもないけど、どっかで読んだ。
ともかく、いい年の、いつもは取り澄ました様な態度でいる大人の言葉の中に、そういうものたちを見つけた時、僕はハッとさせられる。そこに在る、ある種の不器用さとスキが、哀しさが、その人の最大の魅力となる瞬間だ。そして、それが新たな自分自身のそういうものたちの序列に加わっていく。
生きる事は、そういうものたちの得るためのトレードオフなんだろうが、そうであったとしても、やはり学ぶことは楽しい。
とはいえ、学ぶ事は楽しい。特に、未知の世界に足を踏み入れる時は楽しい。
もちろん、半分仕事なので(半分じゃマズイか・・・)、1~10まで全部楽しいとはいかないが、
どんな仕事でも、興味を持てるポイントが一つでも見つかれば、人間は嬉々として取り組む。
面白いと思ったら、大抵の困難は乗り越える。人間の好奇心、驚くべき哉。
でも、ホントは、学んでいる対象に、哲学とか、情熱とか言うべき、
あからさまに語っちゃうと恥ずかしいものが見つかった時が、一番楽しい。
端的に言って、感動さえする。
この感動は、人を好きになる時の感覚にちょっと似ている。
そういう時、ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、この世界の可能性とでも言うべきものを感じる事になる。世の中がっくりする事・人が多いけど(もちろん僕もいろんな人をがっかりさせてはいるけれども・・・ごめんなさい)、そんな中で、そんな些細な出来事で、この世界在り方をもう少し信じる事が出来たりする。
要するに生き方の問題なんだろうと思う。人間、長く生きれば生きる程、情熱とか夢を持ち続ける事が難しくなる。その種のものをしっかり持っていると、世の中に出てから変な所で損するし、要領よく切り抜ければいい所で、変に意地を張って苦労する事になる。だから、生きてく中で、自分の中のそういうものたちを少しずつ減らしていかなければならないし、ほっといても、勝手に削れていく。丸くなる。
でも、自分が本気で信じているものたちはそんな簡単にはいなくならないし、消えない。それが消えたら、自分というもの根拠が無くなるようなものたちだからこそ、人はそれを本気で信じる訳だし、それは自分と世界を分節する分水嶺だとさえ思う。自意識の権威であるかのデカルト翁ですら、この「信じる」という言葉の不可思議を説明する事が出来なかった。というのは有名な話・・・でもないけど、どっかで読んだ。
ともかく、いい年の、いつもは取り澄ました様な態度でいる大人の言葉の中に、そういうものたちを見つけた時、僕はハッとさせられる。そこに在る、ある種の不器用さとスキが、哀しさが、その人の最大の魅力となる瞬間だ。そして、それが新たな自分自身のそういうものたちの序列に加わっていく。
生きる事は、そういうものたちの得るためのトレードオフなんだろうが、そうであったとしても、やはり学ぶことは楽しい。
マッチョ映画
原作はサヨで、映画的にも姿勢としてはサヨなんだろう。でもね、この程度の陰謀ものにウヨもサヨもないと思うぞ。アントワーン・フークア監督。という訳で、主人公のマッチョぶりを堪能するアクション映画として観るならこれは、かなり楽しい映画。
登場人物がステロタイプにハマり過ぎ。どれだけ撃たれても決して倒れないマッチョな主人公(愛国心という言葉に滅法弱い)。疑惑の主人公をいとも簡単に信じちゃう巨乳のお姉ちゃん。お腹が出てる脂ぎった悪党。ピンチになると弁解を始めるがり勉小悪党。こういう単純な演出(演出だよね???)を、「アホか!」と思うか、「分かりやすい」と思うかで、楽しさが全然違ってくる。前者の人は、10分に1回位のペースで高まる馬鹿馬鹿しいという感情を我慢しないと最後まで見れないでしょう。とにかく、ミエミエの部分が多い。
個人的には、最近こういうスタンダードなアメリカ映画にお目にかかれる機会が随分減ったので、素直に楽しむ事が出来た。イラク戦争前後のアメリカ国内の愛国心の高まりによるだろう、一連のFeel - good - movieには、正直辟易させらた時期もあったけど、やはりアメリカの価値観というのは、現代社会を牽引している部分が多分にあるわけで・・・。スーパーマン(明確な規範)が存在するアメリカと、スーパーマン無き日本を比べたら、それが多少歪んだものであれ、スーパーマンがいないよりはマシだ。という事になると思う。
この映画も、一応右翼批判という体はとりつつ、描かれているのは、やはりアメリカの男であり、アメリカの男斯くあるべし(さらに言えば、アメリカの女斯くあるべし)という規範である。そして、僕は思うのだけれど、規範無きわれ等日本の軟弱な男子諸氏の心の欠落を埋める代理装置として、このようなアメリカ映画は受け入れらているんじゃないか。少なくとも、僕はこの映画を爽快だと思うし、素直に楽しむ事が出来る。それは、やはりアメリカという国の美点をそこに感じるからだ。
だって、日本だったらどんなに政治が腐敗しようが、官僚が汚職しようが、暴動なんて起きないし、暗殺なんて話も聞かない。結局、そういう事なんだと思う。国にも国民にも明確な規範がない(正確には、戦後失われた)から、いつまでたっていろんな事がグダグダなんだと思う。そして、多くの人がそういう現状に辟易している。少なくとも、僕はしている。
そういう国で、こういうマッチョなアメリカ映画を観ると、今一番この国に必要なのは、「こいつら何言っても結局変わんないから、いっちょ殺っちまおう!」という程度の気概なんじゃないかと思う。そういう視点で見ると、このお馬鹿なマッチョ映画にも意義が見えてくる。
とまあ、話が映画の中身からは随分逸れたけど、やっぱアメリカ映画の勢いの本質はソコだろうし、ソコが面白さのポイントでもあって、この映画はそういう部分だけはしっかり押さえてある良質映画ではある。
という訳で、僕はこの映画を薦めます。
原作はサヨで、映画的にも姿勢としてはサヨなんだろう。でもね、この程度の陰謀ものにウヨもサヨもないと思うぞ。アントワーン・フークア監督。という訳で、主人公のマッチョぶりを堪能するアクション映画として観るならこれは、かなり楽しい映画。
登場人物がステロタイプにハマり過ぎ。どれだけ撃たれても決して倒れないマッチョな主人公(愛国心という言葉に滅法弱い)。疑惑の主人公をいとも簡単に信じちゃう巨乳のお姉ちゃん。お腹が出てる脂ぎった悪党。ピンチになると弁解を始めるがり勉小悪党。こういう単純な演出(演出だよね???)を、「アホか!」と思うか、「分かりやすい」と思うかで、楽しさが全然違ってくる。前者の人は、10分に1回位のペースで高まる馬鹿馬鹿しいという感情を我慢しないと最後まで見れないでしょう。とにかく、ミエミエの部分が多い。
個人的には、最近こういうスタンダードなアメリカ映画にお目にかかれる機会が随分減ったので、素直に楽しむ事が出来た。イラク戦争前後のアメリカ国内の愛国心の高まりによるだろう、一連のFeel - good - movieには、正直辟易させらた時期もあったけど、やはりアメリカの価値観というのは、現代社会を牽引している部分が多分にあるわけで・・・。スーパーマン(明確な規範)が存在するアメリカと、スーパーマン無き日本を比べたら、それが多少歪んだものであれ、スーパーマンがいないよりはマシだ。という事になると思う。
この映画も、一応右翼批判という体はとりつつ、描かれているのは、やはりアメリカの男であり、アメリカの男斯くあるべし(さらに言えば、アメリカの女斯くあるべし)という規範である。そして、僕は思うのだけれど、規範無きわれ等日本の軟弱な男子諸氏の心の欠落を埋める代理装置として、このようなアメリカ映画は受け入れらているんじゃないか。少なくとも、僕はこの映画を爽快だと思うし、素直に楽しむ事が出来る。それは、やはりアメリカという国の美点をそこに感じるからだ。
だって、日本だったらどんなに政治が腐敗しようが、官僚が汚職しようが、暴動なんて起きないし、暗殺なんて話も聞かない。結局、そういう事なんだと思う。国にも国民にも明確な規範がない(正確には、戦後失われた)から、いつまでたっていろんな事がグダグダなんだと思う。そして、多くの人がそういう現状に辟易している。少なくとも、僕はしている。
そういう国で、こういうマッチョなアメリカ映画を観ると、今一番この国に必要なのは、「こいつら何言っても結局変わんないから、いっちょ殺っちまおう!」という程度の気概なんじゃないかと思う。そういう視点で見ると、このお馬鹿なマッチョ映画にも意義が見えてくる。
とまあ、話が映画の中身からは随分逸れたけど、やっぱアメリカ映画の勢いの本質はソコだろうし、ソコが面白さのポイントでもあって、この映画はそういう部分だけはしっかり押さえてある良質映画ではある。
という訳で、僕はこの映画を薦めます。
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