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ちょっと前に、世界陸上は終わってしまったけれども、僕は随分前から世界陸上とかオリンピックは出来るだけ見るようにしている。何しろ見ていて面白い。4年に一度なんてセコイこと言わないで毎年やってくれるといいのにとさえ思う。

とは言え、別に金メダルが何個だとか、そういう話には全然関心がなくて ― もちろん、日本人選手が金メダルとって嬉しそうな顔してると、良かったねとは心の中では思うけれども ― ただ単純に、選手達の一挙手一投足を見ているだけで満足できる。

前にも書いたかもしれないけど、今では立派な文化系に人間になってしまった自分も高校生まではかなり真剣にスポーツに打ち込んでいた。ハンドボールというマイナースポーツであったけれど、全国大会とかも何度か出場したし、それなりのレベルの選手達とも渡り合ってきた。もちろん、練習も死ぬ程した。本当に死ぬ程した。大体、昔の部活の異常な練習の話すると、普通の人は大げさに脚色して話を面白くしてるんだろうなんて思うらしいけど、ノンフィクションだよ。ゲロ吐くまで走ったし、足が攣ってるのにウサギ跳びしてた。全米は泣かないけど、それなりの感動を人に与えるくらいは頑張った。

まあ、それでハンドボールで飯を食っていこうとまでは思わなかったけど(理由はいろいろある)、この先の高見を目指していくと、多分テレビに映る世界陸上とかオンリピックの選手達のいる場所に通じているんだなという感覚くらいは分かる。

だから、競技中の彼らが大体何を考えているかというのも、結構感じ取れる。(まあ、あれだけ練習したんだからそれ位の恩恵はあっても罰はあたらない。)大体において、彼らは何を考えているかというと、自分の肉体と会話している。この自分の体との対話は、練習を積めば積むほど、多分、濃密なものになる。もちろん、感性が成熟するというもの大事なファクターなので、高校生ぐらいだとちょっと難しいかもしれないけど、一流のアスリートなら絶対に自分の体と対話する術を持っている。これはまず間違いない。

特に、自分を追い込んでる時ほど、世界は意識と自分の体にだけなって、自分の意識と体の合一を目指す為に、殆ど全ての集中力が注がれる事になる。

当たり前だけど、スポーツの極意は完全に自分の体を自分の思い通りコントロールする事にある。自分のイメージ通りに体を操る事が出来れば、アスリートとしては天才の域だろう。

(?と思っている人も居そうなので補足。普通は自分の体なんて、自分の思い通りに動くと思うけど、自分の体は、自分のものだというのは現代人の大いなる勘違いであって、それはコントロールの効かない自然に過ぎない。勝手に眠くなるし、風邪も引くし、新型インフルエンザにもかかるし、ウンコもしたくなるし、生きたくても死ぬ。もちろん、自分の思い通りにパソコンのキーボードは打てるけど、だからと言って、バットを振ってボールに当てるのはそんな簡単な事じゃないのだ。ある程度思い通りに動いてくれるのは、長年の生活の中で練習してきたからだけに過ぎない。で、ある程度と、完全に思い通りというのでは全然話が違うのだ。)

でも、そこまでいくのはそうそう簡単じゃないから、日々の練習の中で、自分の意識と体のズレをちょっとずつ微調整していく。そうやって、目的の大会なりなんなりに向けて調整する訳だから、オリンピックとか世界陸上なんて大きな大会になれば、限りなく自分の意識と体が合一に近づいている選手が沢山みられる訳だ。これが面白くないハズがない。

特に、陸上競技は大好きで、本当に見ていて飽きない。陸上というのは、もちろん他の選手との記録の優劣を競うもんなわけだけど、多分、多くの選手の目指す所は、過去の自分の記録との闘い勝つことだ。そうやって、自分の肉体とストイックに闘っているのだ。

小林秀雄に『オリムピア』というエッセイがある。ちょっと冒頭を引用してみる。

  「オリムピア」という映画を見て非常に気持ちがよかった。近頃、希有な事である。
  健康とはいいものだ。肉体というものは美しいものだ。映画の主題が、執拗に語っている処は、たったそれだけの事に過ぎないだが、たったそれだけの事が、何という底知れず豊富な思想を孕んでいるだろう、見ていてそんな事を思った。出て来てもそんな事を考えていた。
  砲丸投げの選手が、左手を挙げ、右手に握った冷たい黒い鉄の丸を、しきりに首根っこに擦りつけている。鉄の丸を枕に寝附こうとする人間が、鉄の丸ではどうにも具合が悪く、全神経を傾けて、枕の位置を調整している、鉄の丸の硬い冷たい表面と、首の筋肉の柔らかい暖い肌とが、ぴったりと合って、不安定な顔が、一瞬の安定を得た時を狙って、彼はぐっすり眠るであろう、いや、咄嗟にこの選出は丸を投げねばならぬ。どちらでもよい、兎も角彼は苦しい状態から今に解放されるのだ。解放される一瞬を狙ってもがいている。掌と首筋との間で、鉄の丸は、団子でも捏ねられる様なあんばいに、グリグリと揉まれている。それに連れて、差し上げた左手は、空気の抵抗でも確かめる様に、上下する、肌着の下で腹筋が捩れる、スパイクで支えられた下肢の腱が緊張する。彼は知らないのだ、これらの悉くの筋肉が、解放を目指して協力している事は知っているが、それがどういう方法で行われるかは全く知らないのだ。鉄の丸の語る言葉を聞こうとする様な目附きをしている。おそらくもう何も考えていまい。普段は頭の中にあったと覚しい彼の精神は、鉄の丸から吸い取られて、彼の全肉体を、血液の様に流れ始めている。彼はただ待っている、心が本当に虚しくなる瞬間を、精神が全く肉体と化する瞬間を。
『栗の樹』 ― オリムピア P38~39 講談社文芸文庫

なかなか含蓄があるエッセイだ。

人間の精神と肉体の合一の瞬間というものは、非常に単純な美しさで人を感動させる力がある。陸上で分かりずらければ、ダンスをイメージしてみればいい。精神の躍動を肉体で表現するのが、ダンス(というか舞踏)の原理だ。精神の躍動を出来るだけ忠実に肉体で表現されダンスは人を感動させる力がある。

で、話はここでは転じる。

肉体は、人間とってもっとも身近な自然だ。まあ、そういう事は、普段生活している忘れがちになるけど、アスリートはいつも自分の体が思い通りにならない事を熟知している人達だ。そして、肉体を操る為に尋常じゃない努力をしている。

実はこう書いてくると、多くの人は納得するだろうけど、実は肉体を操るというここまでの書き方は嘘で、意識/精神の方を肉体に近づけると言った方が適切だったりする。肉体というのは、人間が常にもつ制約であって、その秩序の中に精神を閉じ込めると言った方が正確なのだ。肉体は、精神の碇なのだ。主が精神で、従が肉体という無意識の前提は現代人の病だとさえ思う。

小林秀雄は、そういう現代人が抱える肉体と精神の関係を次の様に書いている。

 併し、考えてみると、僕らが投げるものは鉄の丸だとか槍だとかに限らない。思想でも知識でも、鉄の丸の様に投げねばならぬ。そして、それには首根っこ擦りつけて呼吸を計る必要があるだろう。単なる比喩ではない。かくかくと定義され、かくかくと概念化され、厳密に理論附けられた思想や知識は、僕らの悟性にとっては、実に満足すべきものだろうが、僕らの肉体とってはまさに鉄の丸だ。鉄の丸の様に硬く冷く重く、肉体はこれをどう扱おうと悶えるだろう、若し本物の選手の肉体なばら。無論、はじめから選手になどならないでいる事は出来る。思想や知識の重さを掌で積ってみる様な愚を演じないでいる事は出来る。僕らの肉体は、僕らにきわめて親しいが又極めて遠いのだ。思想や知識を、全く肉体から絶縁させて置く事は出来る。大変易しい仕事である。

『栗の樹』 ― オリムピア P40~41 講談社文芸文庫

ちょっと難しい持って回った言い方だが、その言わんとする処は十分伝わってくる。思想でも、知識でも一見思い通りなる様に見えるものだが、それは、それらが肉体から離れてしまっているからだ。という事だ。思想や知識に限らない。言葉だって、思い通り使えそうで、実は思い通りに扱う事はとても難しい。思い通りに使えると思っている内は、多分、言葉に騙されている。

例えば、文章なんて、思った通りに書けるものの様にみえるけど、多分、思い通りに書いている内は、まともな文章は書けてない。どんな人でも、文章を書けば文体というものが生まれる。どんな下手くその文章でも、プロの物書きの文章でも、必ず文体というものを持っている。

文章を思い通りに書いているというのは、文体を無視して(ホントは絶対無視なんで出来ないけど)自分の意識で文章を書いているという事で、それは肉体から離れた精神と同じで、簡単な事だ。

文体というのは不思議なもんで、書いた文章よって逆に自分自身が規定される。自分で書いた文章が、逆に自分自身に次を問うてくる。それに自分で答える事が出来れば、次の文章が書ける。でもそれに答える事が出来なければ、もうそれ以上は書けなくなる。文体というのは自分自身の精神の制約そのものだったりもする。

言葉というのは、便利なものだなんて事は今更言うまでもないが、便利なものは常に毒を持っていて、使っている本人を常に規定してしまう怖さを持っている。言葉の毒で、精神なんて簡単に硬直してしまう。もちろん、使っている本人は言葉を自由に使っているつもりだが、実際は言葉に使われている。言葉の不思議や謎に注意していないと、その不思議や謎は、使っている当人に向けられる。

まあ、何が言いたいかというと、言葉もまた自然であるという事が言いたい。意識で簡単にコントロールしようと思っても簡単にはいかないし、コントロールした気になれば、簡単に使っている当人に牙を剥くのだ。

言葉を使う時も、砲丸を投げる時の様に耳を澄まさなければならないし、言葉が肉体から離れてしまわない様に、注意深くなければならない。一旦肉体から離れた言葉は、空虚な概念と化し、二度と戻ってこない。別に大した文章なんて書いてないけど、この事は、4年もブログを続けてきて身に滲みて理解出来る。

僕は、村上春樹の本も良く読むけど、村上春樹は走る作家としても有名だ。これだけ、肉体を意識している作家は他には多分いないだろう。彼の文章の魅力は、その言葉の測り方が天才的なところにあるのだろうと思う。それは、多分作家の言葉というより、アスリートの言葉に近いとよく感じる事がある。頭で捏ねくり回した概念や空想ではなく、肉体から出来てきた、肉体に繋がった言葉だと感じる。

一流のアスリートが、含蓄がある事を言うのも、自分の文体を持ってしゃべっていることも納得が出来る。彼らは、精神を肉体に繋いで置く技術に長けているのだ。これは文字通りアスリートの言葉だけどね。

村上春樹の言葉かどうかは忘れたけど、「頭をひねらせずに心をひねらせるのが本当に優れた小説である」という言葉がある。そして、自分はそういう小説を書きたいと言っていたけど、頭をひねらせるのは確かにそんなに難しい事じゃない。難しい理詰めで文章を書けばいい。でも、それだと、人の心を物理的に動かす事は出来ない。心ひねらせる文章にはならない。

毎度、オンリピックとか世界陸上とかで、選手を見ているとつらつらとそいう事を思う。TVのうるさい解説の音声を消して、彼らの肉体の言葉、アスリートの言葉に耳を澄ましたくなる。

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極東ブログ ― [書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)


こちらも極東ブログで取り上げられていた。ので、興味をもって読む。

哲学の本はその昔結構沢山読んで、いろいろと得るものは多かった。特に既に亡くなられてしまった池田晶子の本は沢山読んだ、当時までに出ていたものは全部読んだ。彼女は小林秀雄に心酔していて、その影響で小林秀雄を読み始めるきっかけにもなった。これにはマジでかなり感謝している。

小林秀雄に心酔している人間は世の中に結構いるんだぁという事は、結構後になって知った。吉本隆明山本七平は有名。極東ブログのfinalvent氏もそうだし、この前芥川賞をとった川上未映子もそうだ。

そしうした心酔者が多い故に、小林秀雄を馬鹿にするインテリも結構多い。下らんとか、近代批評を駄目にした張本人とか。まあ、そういう話は今回は関係ないのでしないけど、小林秀雄を馬鹿にする事で安心しているインテリなんて僕は信用しませんよ。。。と。

で、

哲学の本を乱読している時に竹田青嗣の本も何冊か読んだ。が、当時はそれ程関心を持たなかった。自分の興味はもっとアグレッシブな文章の方(特に小林秀雄の文章みたいに強烈なやつ)にあったので。(まあ、若いとどうしてもそいうものに惹かれる)

今でも竹田青嗣の本は殆ど読まないが、この新書を読んで、「ああ、確かに長年思索を続けた人の言葉だな」と思わせる静謐な感じの説得力はあった。

この『ちくまプリマーブックス』という新書は、対象が中高生というコンセプトの新書だが、およそ中高生では理解は難しいだろうと確かに思う。

極東ブログでも引用されているが、

世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません。これを理解できないかぎり、人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです。


『中学生からの哲学「超」入門』 p81

この腑に落ちるという経験をもつ中学生なんてそうそういないだろうから、この理解は、どうしても概念的なものになってしまうと思う。でも、本当に「腑に落ちる」というのは経験としてある。べつにそれで人が丸くなるとか善人になるわけでもないが、それはある意味で自分のそれまでの世界観を一旦うっちゃる事でもある。

極東ブログでは、

 確かにネットの聡明でない人々の対話ともいえない罵倒の交換は、歴史に偽装されたり倫理に偽装された「真理」の信奉者や、真実はなにもないとする懐疑論をポストモダン的に装ったペダンティズムなどが見らるものだ。聡明になれなかった人々である。
 聡明になった人はどうするかといえば、開かれた対話、開かれた問い、問うことを禁止されない問いへの多様な解答の試みから、社会的な合意を形成していこうとする。なるほどそうかとも思う。


と書いてあるが、聡明になった人は、問うこと止めないようになる。ホントに死ぬまで問い続けるし、考える事をやめない。「問うても決着の出ない問い」であっても問うことをやめない。多少逆説的かもしれないが、それが「腑に落ちている」という事の意味でもあると思う。

で、本当に大変なのは、その腑におちてからで、腑におちた後も人生は続くし、人は社会の中で自分の位置づけを探していかなければならない。世の中には、「極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回す」人はたくさんいる訳で。それに、社会にいれば当然社会的な欲望とも折り合いをつけていかなければならない。本書で言うところの『一般欲望』とつける折り合いの事だ。聡明なった所で人は別に悟りを開いて坊さんになった訳ではないので、そういうものの中で人は簡単に聡明ではなくなる。

そこで、「自己ルール」の話になる。

社会の善悪のルールは、法律とはまた別に、ふつうの道徳とか、慣習(習俗)のルールと言われているものです。でも自分の中の善悪のルールは、これとはまた違うのです。自分の内の内的なルールを、私は、「自己ルール」と呼びます。社会のルールと「自己ルール」の違いをうまく区別して理解することは、とても人間を聡明します。

『中学生からの哲学「超」入門』 p141~142

ここもまた難しいが、これも別に中学生が考えつく様な俺様ルールの事ではない。社会ルールと別個に、「自分の意志をもつこと」で、自分なりの欲望の昇華の仕方を身につける事である。そして、その「自己ルール」は相対的な常に再考され続けるものでもある。

個人的には「自己ルール」を「信念」と解してもいいと思っている。「信念」という何かしら不変のものというイメージがつきまとうが、それは単なる狂信で、本来は常に再考され続けるダイナミズムをもっている。

ただ、そのような「自己ルール」を持つことは簡単ではない。

神話や宗教などは、本来そういった「自己ルール」を作り上げる為の補助線として機能をすべきだし、哲学も本来はそうだろうと思う。それらは、ある意味で人が生きる上でのよすがとしてあるべきものだと思う。

けれども、それらは現代では補助線を引いてくれる程の力をもっていないし、宗教なんて昨今とっても評判がわるい。本来これは人を聡明にしてくれるハズのものだが、どうもそういう評判は聞かない。。。

「自己ルール」を持つことが簡単ではなくなってしまったのは、それら(神話とか宗教とか哲学とか)が、もう社会を横断的に説明してくれる様な大きな物語を提供できなくなってしまった為かもしれないし、単純にくだらん(あくまで他人からみれば)「自己ルール」を再編し続ける事なんて、大変だからかもしれない。

ともあれ、この2009年のこの国で「自己ルール」なんてもんを後生大事にしていくのは結構大変だし、そもそも自分自身に対して説得力をもった「自己ルール」を構築するためには、相当に知識を蓄えていかなきゃならない。でも、腑におちた人は、おそらく聡明である事をやめないだろう。それが腑に落ちる事の意味なので。

話は変わって、

今日は「衆院総選挙」で、まあ多分民主が政権とんだろう思いながらTVつけると、まあ実際その通りな訳だけど、ちょっと有権者の皆さんの態度は狂気が見え隠れして怖い。別に自民を弁護する訳でもないし、民主の理想高き(でも、根拠乏しき)マニュフェストもどうでもいいけど、社会のルールと「自己ルール」を混同しているのでは思わさせる有権者が多い。。。もちろん社会のルールを形成する為に選挙は大事かもしれんけど、怒りで投票してもどうにもならんと思うのだが。。。

べつに、自分は聡明な人間ではないけれども、くだらん「自己ルール」くらいはもっていて、それは社会がどうこうしてくれるもんではない事くらい知っているし、それでも、社会のルールがある程度は大事な事も自覚している。ただ、静かに思索を続けて行動する人の声はあんまり聞こえてこないもんだけれど、そういう人はいたるところいるもんだという事は社会に出ると学べるし、最近はそういう声しか聞きたくない。
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久しぶりの音楽のお話。

たまたま最近耳にしたサカナクションのアルバム『シンクロ』の中のネイティブダンサーが良い。で、youtubeで見つけたPVがめちゃくちゃかっこよかったので、ituneで衝動買い。でも他の曲も割と好みなので、ありです。



このダンスがとても素敵なので、なにかと思ったら、

シーウォーク - Wikipedia

と言うらしいですね。でも由来は結構おっかないダンスなので無闇おどるもんじゃなさそうだけど。

去年はパフュームがめっちゃ流行ってまだちょっと流行っているけど、これも多分テクノポップなんでしょうね。まあとりあえず聞いていて気持ちいい感はあります。

サカナクション - Wikipedia

はまだ割と若いバンドなので、ちょっとこれからは注目していこうと思います。(てか、メンバーがみんな俺と同世代じゃん。。。でも、同世代が活躍するのは微妙に嬉しい。)

あと、PVのスニーカーがちょっと欲しいぞ。。。
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こないだTV放送を録画しておいたのを観た。いろいろと思うところがある映画でこれは観ておいて良かったな。と、気持ちが熱くなる映画だな。というのが素直な第一印象。

映画として、作品として客観的に評価するなら、新聞社内の大げさな対立、飛び交う罵詈雑言等は、一サラリーマンとして、どうしても大げさな演出に見えてしまう。。。でも、ここが作品の肝の一つでもあるだろうから、これはハズせないという事も分かる。墜落現場の再現も素晴らしいが、その画の力に頼らずに、あくまで新聞社内を舞台としてフォーカスした点は、とても素晴らしいと思う。

この映画は、一地方新聞社の新聞記者の戦いの記録だが、もうちょっと抽象化すると企業と企業戦士の戦いの構図であったりもする。

とにもかくにも、新聞記者たちの新聞に対する熱い想いが凄まじい。記者だけでなく、販売局や広告局といった、新聞社というイメージからすると裏方にあたりそうな社員達もそれぞれがそれぞれの仕事に相当なプライドをもっている。(それが正論かどうかは置いといても)

それぞれの社員が、ぞれぞれの想いをお互いにぶつけ合う2時間半は、猛烈なものだ。終盤の全社員入り乱れての大乱闘は、まさにお互いのプライドのぶつかり合いだが、仕事に対して何が人をそこまでさせるのか、考えさせられる事になる。。。

80年代という時代にあっては、企業戦士はみなあのようなプライドをもっていたのかもしれないし、取材した事件の大きさが、あそこまで記者達を昂揚させたのも分からない。仕事に対する熱い想いは、昔の方があったのではないかと、安易に結論を急ぐつもりもない。ただ、この熱い想いがなければ仕事は多分つまらないだろうなぁという漠とした想いは抱く事になるし、出てくる男達の大半は、(男の子目線でみると)大変かっこよく見える。公開は昨年だが、仕事に対して熱い想いを持ちきれない自分としては、いろいろメッセージを受け取らざるをえない。そしてこのメッセージは何かしら時代に対する批評性を備えている。

もう一つ。

この映画は、日航機事故をモチーフにしているが、これまで個人的に、この事件に大した興味は持っていなかった。当然と言えば、当然だが、現在28歳(1985年-当時4歳)の人間が、当時の記憶を鮮明にもっているハズもなく、「昔、スゲーでかい航空事故があったんだ。へぇ~」くらいの感想しかなかった。それも事故後何年経過というニュースで知るくらい。まあ僕と同じ世代なら、特別な事情がない限り、その程度の知識しかないだろう。

しかし、この映画の男たちの、昂揚/奔走ぶりもみて、やっぱこれは尋常な事件じゃないと思い、ネット上を巡回してみると、実に様々な情報がアーカイブされている事に気がつく。

日航機事故 - Wikipedia

日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る20年間の記録




これらの記録を読む/見る/聞くにつけ、愕然とさせられる情報が次から次へとつながっていく(リンクしていく)。まるで、失われてた24年分の記憶が自分の中に注入されていくような感覚だ。

最近は、ネットは終わりだ、もう先はない、ビジネスモデルが成熟してないネット等、ネットに対する批判的な論調があるが、少なくともアーカイバ(それはある意味では歴史記憶だ)としてのネットに勝るメディアは、今のところ他にはない。ある情報にたいする関連する情報のリンクによって、ユーザはその情報の全体像、それに対する人々の想い、考察、事実のディティールをあっと言う間に補完できる。もちろん、間違った情報や信憑性にかける情報もあるが、それは、ある程度他のリンクを回る事で、補完/訂正可能だ。

情報の相互リンクも強力だが、動画や音声、画像として当時の事件を体験する事が可能であるというのも、人類の歴史上かつてない事だ。ネット以前は、歴史の叙述の担当は基本的は文章だけだった、もちろん、テレビというメディアもあるが、テレビはアーカイバというよりも、進行形の現在にフォーカスしており(視点もリアルタイムであるが故に野次馬的興味で成立している・・・)、アーカイバとは言えない。

ネットでは、きっかけさえあれば、かなりの程度まで歴史に対する興味を能動的に深めていく事が出来る。現に、日航機事故に関して4時間もネットを巡回してしまった。(もちろん、すべての関連情報を見回った訳ではない。この後も書籍等でフォローアップしたい。)このアーカイバとしてネットの潜在能力は凄まじいものがある。

自分の知らない歴史を、この様に追認識できたのは大きな収穫だった。こういう体験はこれまでも何度もあるが、その度に「ああ、これは知っておいて良かったな」と思う。自分の興味で能動的に知る歴史は、多くの場合信じられない位多くの事を学ばせてくれる。時には、少なからず人生観の変更を余儀なくもされる。

僕の最も愛読する作家である小林秀雄は「歴史とは自己である」と書いていた気がする(どうしても出典が思い出せない。。。すいません。知っている人は教えて下さい。。。)が、それは、ある意味で、自分の過去をふりかえる様に、歴史を読まねばだめだという意味でもある。それは今でもそう思う。また、そういう風に学ぶ時の歴史以上に面白いものもそうそうない。

多くの人にはとって歴史は、基本的に他人の過去に過ぎない。それ故に、あっという間忘れ去れる。だが、決して忘れない人々もかならずいて、ネット上ではきっと今日もそういう想いを持った人たちの記憶がアーカイブされている。そして、その過去を共有しようと思えば可能な空間が開かれているという事実は、情報技術がもたらした非常に大きな成果だと実感させられる。

と、またしても映画からは話が逸れたが、個人的にいろいろなきっかけを与えてくれる映画であったので、取り上げてみた。


夏の一本。

ストーリーはかなり荒唐無稽だが、そう感じさせないように上手くまとめられている。

まず、オープニングで説明される仮想世界OZ。かのセカンドライフが、既に社会のインフラになっているという設定らしいが、この世界で起きた事件がやがて現実を脅かす様になる。この仮想世界OZの説明部分は公式にYouTubeで公開されている模様なので、詳しくは↓。



で、もう一つの舞台がヒロインの田舎の陣内家(由緒ある戦国武将の家系という事らしい)。この陣内家の大家族と主人公が力を合わせて、仮想世界OZで起きた事件に立ち向かっていく。

基本的なストーリーはそんな感じ。アクションあり、感動あり、笑いありの盛りだくさん夏休み映画です。といった所か。

とはいえ、随所に現代に対する微妙な皮肉も見え隠れしたりする。まあ気がつく人しか気がつかない程度だけど。

子供も大人も楽しめる夏の一本としては、最適な映画かもしれない。

でも、仮想世界OZって、システム屋からすると運用めちゃくちゃ大変だろうな。。。という職業的な観点で見てしまって微妙にこの設定に乗り切れない。。。悲しい。。。

あ、あと山下達郎のテーマソングもよかった。
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