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日本を降りる若者たち (講談社現代新書) 下川 裕治 講談社 2007-11-16 売り上げランキング : 72102 おすすめ平均 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
友人(数少ない)が勧めてくれたので、読んでみた。
何にせよ、人に勧められた本は素直に読んでみるというのが僕の人生哲学の一つです。多分。
読後。この本は今後の日本社会の行く末を考える上で非常に示唆的な内容だった。正確には、その状況証拠の一つを提示してるに過ぎないのだけれど、それを僕はある種の示唆として受け取る。もちろん、面白かった。
「日本を降りる若者たち」というのは、タイ / バンコクのカオサンに居ついて、日本に殆ど帰ってこない若者達の事を、主に、指している。本の中には、「外こもり」などというキーワードも出てくるが、そう表現されるとイメージしやすいかと思う。
その様な若者たちの実生活の紹介が、この本の内容の90%以上である。特にコレといった批判もないし、同情もない。かなり正確なルポタージュだ。
詳しくはこの本を読んで欲しいが、実に様々な背景を持った若者達がカオサンに集まってくる。日本の会社社会で上手くやって行く事が出来ずにタイに来て、一年の殆どをタイで過ごす。少し前までは、タイはビザなしでの滞在が30日まで許されていたから、その期限が迫れば、近隣のラオス、カンボジアなどに行き、またカオサンに戻る。滞在の軍資金がなくなれば日本にもどり、短期集中で円を稼ぎ、またカオサンに戻る。その様なスタイルで生きている若者(20代後半~30代後半くらい)が実に沢山いる。
では、なぜカオサンか。
簡単だ。
その様な、日本では上手く立ち回る事が出来なかった若者達が、何の強要も受けない空間がカオサンだからだ。昼間から軒先でビールを飲んでいても、だれも気に止めない。そういう空間は日本、特に都市部にはないものだ。労働観が日本とはそもそも全く違う。
ある会社で、十年近く働いていた妻子持ちの男が、ある日会社に来なくなる。
次の日もこない。次の次の日もこない。
上司が連絡すると、一言「飽きた」。
上司や同僚は「飽きたならしょうがない」という事で終わり。
こんな話がごろごろしているのがタイという国である。
日本ではまず考えられない世界だ。日本の常識から眺めると唖然とする。
そもそも働いていない妻子持ちの男だって一杯いる。そういう家は奥さんが働いている。でも奥さんにもそれ程悲壮感はなくて、男なんて端からあてになんかならないんだから、といった調子で、屋台の飯屋でもやって家族を養う。
また、大卒の女性だって平気で給料を2、3日で使い切ってしまう。
経済観念というものがそもそも欠落しているのだ。
それでも何とかやって行ける。なんとかなる。そういう世界。それがタイという国。
つまるところ、頑張るという事が特に美徳ではない世界がそこにはあるわけだ。そういう所に、日本で頑張り疲れた若者がスッと入ってしまうのは、ある意味では、当然の事かもしれない。
もちろん、そんな風に日本社会をドロップアウトし、カオサンに集まってくる若者達が被害者で、彼らを追い込んだ日本社会に大きな問題があるという様な安易な事が言いたい訳ではない。
彼らはカオサンで生活する為の資金を日本で稼ぐ。それは日本という国の経済力に彼らが依存していると言う事で、意地の悪い言い方をすれば、それは彼ら自身が感じざるを得ない矛盾だろう。そういう視点だってある。
彼らとは対照的に、タイで「働き」、生きるという選択をした若者たちもいる。ラングナム通りにもまた、日本人長期滞在者がいる。彼らの全員という訳ではないが、彼らの多くは、学校に通い、タイ語を学び、現地での職につく。そういう若者達もいる。
カオサンと、ラングナム通りの違いは、タイで「暮らすこと」の中に「働くこと」を持ち込んだかどうかにある。と著者は言う。そしてこんな風にまとめる。少し長いが引用。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
カオサンの通りの外こもりにしろラングナム通りの若者にしろ、国外に流出する人々は日本社会が抱えた問題を映し出す鏡となる。好況不況、少子高齢化、労働構造の変化、家族のあり方の変容、そういった日本社会の変化に押し出された人々ではあるが、そこには楽しみもある。旅がそうであるように。終身雇用制度の崩壊(でも年功序列は根強く、根強く残っている※俺注)によって、社会が自分のやりたいことを明確にもつことを若者に要求するようになったことが、若者の自分探しの旅に繋がり、それがタイで暮らす若者を生み出した。
(中略)タイに住む若者たちは男性も女性も異口同音に、「日本のサラリーマンは偉い」というが、社畜という言葉が表すような日本社会の社会的規範やライフスタイルに生きづらさや居心地の悪さを感じて、日本にこれ以上住みたくないと思う人々もいる。
(中かなり略)日本で頑張る事に疲れて、タイで頑張らなくてもいい自分になれた人もいる。タイでの暮らしのなかで、日本での疲れが癒えた頃、帰国するかタイで生きるか選択する。
タイで頑張れない人は日本でも頑張れない。日本で頑張れなかったけれど、タイに来ても結局頑張れなかった人、日本で頑張れない、あるいは、頑張らない人が居心地の悪さを感じて、他人の目を気にせず頑張らない自分を貫くことができる場所をタイに求める。日本いたらニートや引きこもりと呼ばれても、タイに来れば一旅人になれる。
結局、日本は「頑張る」という言葉を巡って人生が展開される、そうも思える。いや、日本というより、資本主義の世の中では、どこも同じなのかもしれない。現に、外こもりファンラン(白人)もカオサンやプーケットにわんさかいる。外こもりとラングナムの比較から見えてくるのは、突き詰めると、近代がどういう時代であったか、そして、近代資本主義がもたらして豊かさに対する問いかけなのかもしれない。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
ある部分で、上に書いてある事に僕は同意する。その上でこんな風にも思う。
恐らく、今日本の多くの若者は現状はそんなに明るくないだろう。労働問題とか、格差社会とか、もちろん、そういう事もあるだろうが、そういう事以前に、というかそういう事の背景には、そもそも、若い人間が、この国で働き、人生を生きていく事を上手く信じる事ができなくなってしまったからだろうと思う。
例えば、
会社が提示するキャリアパスとか、出世とか、そういうものを本気で信じている若い人間はあまりいないだろう。多くの場合、彼らが求めているのはもっと何か別のもので、それはつまり、自分の人生を豊かにしてくれる何かだ。でも何故か、その何かは会社とか仕事の中には殆ど求められない。求める事もなされない。仕事を頑張るという事が、自分の人生を豊かにする事とイコールにならない。
だが、実はイコールになる場合もある。それは本人が自分の望む仕事に就けた場合だ。つまり、自己実現の手段が仕事である場合だ。
ここから逆説的に導き出せる仮説は、自分の望む仕事/職業に就くことができなければ、仕事はもはや人生を豊かにする為の積極的な手段足りえないという事だ。
ホントはそうじゃないんだろうと思う。どんな仕事/職業だって、人生を豊かにするんだろう。これは、その仮説に対する反証なんだが、あまり説得力がない。
多分、団塊の世代以降の子供達が見て来た多くの親の背中にはこう書いてあった。仕事は辛く、家族の為に汗水垂らす。仕事は甘くない。そして、それ程面白いものではない。ここまでなら、それなりに物語として意味はあるだろう。
しかし、その後に、そういう文脈をふっとばす様にバブルが来る。この時点で、仕事というものの意味が殆ど失われてしまったのは、まず、間違いないと思う。簡単な理屈だ。「金は十分ある。だったら、真剣に仕事をする必要なんてないじゃないか。」子供は、言語化せずとも真実を見抜く生き物だから、仕事とはお金を稼ぐ手段に過ぎないのかと短絡しても何の不思議もない。もちろん、そんな子供は既に経済的、物質的には満たされている。
そんな風にして育ってきた子供が、果たして、仕事を通して人生を豊かにしようなんて考えるだろうか。多分、考えないだろう。(考えるなら、豊かにできるような仕事に就こうという事だろう。既に書いた様に)
でも、人生は待ってくれないから、モラトリアムが終われば、嫌でもちゃんとみんな会社に就職し、あるいは就職せずとも、社会人にはならなければならない。そして入った会社では、依然として強固に昭和的価値観が生き残っている。つまり、自分の親達の背中に書いてあった世界がそこにはある。その中で、「頑張ること」は暗黙に要求される。でも何故か、「頑張ること」の意味の方は、すっかり抜け落ちている。
さらに悪いことに、会社の中にも世代間格差は厳然と存在し、またしても、年功序列という昭和的価値観に支えられた制度が、既得権益をしっかりと守っている。
かくして、前途ある若者は絶望する。人生を豊かにする手段を見失って・・・。
ここでタイのカオサンの話に繋がるんだろう。タイには、日本とは違う労働観があり、生活スタイルがある。「頑張る」という選択肢もある。そして「頑張らない」という選択肢もある。人生を豊かにするというアプローチの仕方が自由である。日本の文脈を捨てて、ここなら自分の人生を豊かにできるかも。そう思っても不思議はない。
僕はこの本を読んで、カオサン/ラングナムの彼らがある意味では、羨ましくも見えた。そんな風に日本という文脈を捨てるのは、さぞかし清々しいんだろうな。とも思った。でもやっぱり、それは違うな、とも思った。なぜなら、僕は日本の社会というもの信じているから。別に僕はいい会社に入っている訳じゃないし、それ程人生を豊かに出来たとも、その意味を見つけれたとも思わない。会社はがっつり年功序列で、単価と原価が逆転しているオジサン達も結構いる。理不尽な事もそれなりにある。もちろん意味はない。意味がないのが理不尽の意味なんだから、あたり前なんだけど、ホントに理不尽なんだ。でもそんな状況であっても、尚、この社会にはまだちゃんと自浄作用が生きていて、自分自身がすこしづつでも変わる事で、状況もすこしづつ変わるだろう。そう信じている。そう、僕はこんな社会をまだ信用しているんだ。信じられない事に。どういうわけか。日本で生きてきたという、ただそれだけの理由で。
もちろん、何度も繰り返すが、カオサンに行く若者を「違うだろ。それは」とも思わない。ラングナムで「働くこと」を選択した若者をそうは思わないのと同じ様に。僕もいつそうなっても不思議じゃないし、実はそれが自分自身にフィットした最良の選択かもしれないし。でも、今はまだそうは思えないだけだ。
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とりあえず、今年のべスト映画(暫定)。
監督はフランク・ダラボン。
原作はスティーヴン・キング。
このコンビの映画と言えば、「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」。
どちらも文句なしの傑作だが、この「ミスト」もそれらに引けをとらない出来となった。
でも、この作品は、前2作とはテイストが全く違うので、
見に行く人は感動的なお話を期待しない様に・・・。ジャンルはホラー映画なので、
まず間違いなく暗澹たる気持ちになるから。
(ホラーは、キングの最も得意とするジャンルだから当たり前だけどね)
で、何が凄いかと言うと、プロモーションでも散々やってるけど、
「衝撃のラスト15分」がホントに衝撃的。凄い。
僕みたいに映画産業に散々投資(というか投棄ですね。正確には)している人間から言わせてもらうと、
だいたいこういうコピーは過剰広告で、まあ真に受ける事なんてないけど、この作品のコピーは過小広告。
いや、ホントに。
実はこのラスト、キングの原作にはなかったもの。
監督のダラボンが思いついて、ラストを改変した訳だけど、キングはコレに2つ返事でO.K.したとの事。
キング曰く「先に思いついていたら、自分もそうしていたのに」。
まあ、こういう作品は色々書いても仕方ない部分もあるし、
ネタばれもしたくないので是非映画館に足を運んで下さい。
映画史上最高のバッドエンドが拝めます。
ああああ・・・・、実はもうちょっとテーマに触れたいんだけど、
やっぱ、あんまり結論を誘導したくない作品なので、書きません。
是非映画館へ。是非。
監督はフランク・ダラボン。
原作はスティーヴン・キング。
このコンビの映画と言えば、「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」。
どちらも文句なしの傑作だが、この「ミスト」もそれらに引けをとらない出来となった。
でも、この作品は、前2作とはテイストが全く違うので、
見に行く人は感動的なお話を期待しない様に・・・。ジャンルはホラー映画なので、
まず間違いなく暗澹たる気持ちになるから。
(ホラーは、キングの最も得意とするジャンルだから当たり前だけどね)
で、何が凄いかと言うと、プロモーションでも散々やってるけど、
「衝撃のラスト15分」がホントに衝撃的。凄い。
僕みたいに映画産業に散々投資(というか投棄ですね。正確には)している人間から言わせてもらうと、
だいたいこういうコピーは過剰広告で、まあ真に受ける事なんてないけど、この作品のコピーは過小広告。
いや、ホントに。
実はこのラスト、キングの原作にはなかったもの。
監督のダラボンが思いついて、ラストを改変した訳だけど、キングはコレに2つ返事でO.K.したとの事。
キング曰く「先に思いついていたら、自分もそうしていたのに」。
まあ、こういう作品は色々書いても仕方ない部分もあるし、
ネタばれもしたくないので是非映画館に足を運んで下さい。
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ああああ・・・・、実はもうちょっとテーマに触れたいんだけど、
やっぱ、あんまり結論を誘導したくない作品なので、書きません。
是非映画館へ。是非。
こないだcinemayukikaki.blog.shinobi.jp/Entry/41/のワインバーグ本の感想ごにょごにょ。
本当に良い本の、良い所を、誰かに伝えるというのはとても難しい。
良い本というのは大体において無駄がないし、何度も読み返す事で、その滋養を吸収出来るものだ。
だから、自分ごときが要約して伝えらる事は無いだろうな。というのが、僕が本をオススメする時に常に抱く本音である。最終的には、「良い本だから読んでください」としか言えない。
それでその人が、その本を手にとって、さらに読んで、「あれは素晴らしい本だったよ」なんて言って貰えると、自分が書いた訳でもないんだけど、なんだか妙に嬉しい。
また、別の問題もある。
良い本を読んだとしても、タイミングが悪ければ、心に残らないという事も、ままある事だ。
かの細菌学者であるパスツールはこんな言葉を残している。
Chance favors the prepared mind (直訳:チャンスは準備された心を好む)
(Chanceの部分を、Good Bookとでも置き換えて下さい。)
昔読みかけて途中で放ったままにしてた本を、ふと、読み返してみて、「う~む・・・これは素晴らしい本じゃないか!」という様な経験が何度もある僕としては、身につまされる言葉だ・・・。
という訳で、良い本の、良い所を伝えるのはとても難しいので、
この「スーパーエンジニアへの道 ~技術リーダーシップの人間学~」をどの様に紹介すればいいかと真剣に悩んでいるうちに、2週間も経ってしまった。(嘘。怠けてただけ)
でもまあ、素晴らしいとだけ言っていても伝わらないのが世の中であるから、
以下、色々と書いてはみますが、やはり、「良い本だから読んでください」というのが結びの言葉です。
(結びの言葉の後に、本題に入るのも変なものだ。)
この前も書いたけど、タイトルだけで判断すると、この本は読者をかなり狭く限定してしまうが、これは組織の中で仕事をする人全てが対象読者と言ってもよいと思う。
そう。一人以上の上司、あるいは、一人以上の部下がいるというあなたは対象読者です。
この本の骨子を無理やりにでも、引き出すとすれば、
「誰かと一緒に仕事する時に(特にあなたがリーダーである場合)、あなたはどの様にすべきか?」という事に尽きると思う。少なくとも僕はその様に読んだ。疑問形なのは、この本が、「はい。これが答えですよ」というHow to本ではなく、「その答えを見つけるのはあなたです」というスタンスで一貫しているからである。
そして、この疑問形のスタンスこそが、良きリーダーの重要な資質の一つでもある。優秀なリーダーというのは、普段から、不断の問いをしながら仕事に臨んでいる(ダジャレじゃないよ)。それは、仕事に対して向けられるし、仕事のやり方に対しても向けらるが、真っ先に疑われるのは常に自分自身という事になる。
こういうスタンスで仕事を続けるのはツライものだ。だるま落としの一番上に乗っかって、自分で足場をスコンスコンと抜き続けるようなもんだ。どんだけ高く積んでも、なかなか上に行かないし、いつもスコンスコンとやっているから、とっても不安定。
でもこういう姿勢こそが優秀なリーダーの絶対条件である。不断の疑問形の思考が、人、物、事の変化を敏感に感じ取り、常にそれにあった行動を起こせるからである。また、状況そのもの自体に変化を起こせるからである。でも、残念な事にそれが常に上手くいくとは限らないのである。というか殆どの場合は上手くいかない。端的に言って、報われない。だから、ワインバーグ御先生も、エピローグをこんな書き出しで始めている。少々長いが、引用する。
「私は読者に対して、問題解決型リーダーに関して知っていることのほとんど全部をお話した。だが、私にはいえないことが一つある。それは読者がそうなることを好むかどうかである。誰もがリーダーになることを好むわけではない。だが多くの人々は、自分がそれを好んでいないと気づくのが遅い。そう気づいた時には、彼らはもとの地位に戻る為に必要な技能や、態度や、幻想を失っているのがふつうである。彼らは自分達の動機を、行動を起こす前に調べてみるべきだったのだ。だがもちろん、彼らはそうはしなかったのである。私は何十年にもわたってリーダーたちのためのコンサルタントを務めているが、いまなお彼らは私にとってまったく理解できない存在である。知性を備えた人間が一体どうして、他人の人生を組織するという危険を冒すのだろう。(中略)理屈は、理屈に基づいて導き出されたのでない結論を打ち消す事は出来ない。だから、理屈をいう代わりにあと二つ、物語を記す事にしよう。(以下略)」
その二つの物語はとても興味深く、示唆的だが、それは皆さんが自身で読んで感じとって欲しい。
もちろん、僕はその二つの物語を既に読んだ。そして、今の所リーダーになんてなりたくないと感じている。同時に、自ら進んでリーダーになろうとする人の気持ちも分かる。恐らくそれは、プライドの問題だ。自分自身に対するプライド。そういうもので人はあまり幸福になれるとは思えない決断を下す事もあるのだ。もちろん、誰も褒めてくれない。失敗すればもちろんだが、成功してもその努力に見合う程には報われない。でも、それが本物のリーダーの宿命である。(余談だが、もしリーダーが大きな顔をしているとしら、その組織は臭え組織という事になる。)
僕としては、その様な不断の問いを続けているリーダーと共に仕事がしたい。そして、自分自身も同じようなスタンスで仕事に臨みたいと考えている。何でかと言うと、不断の問いを続けて仕事の細部に気を配ることは、仕事を楽しくする殆ど唯一の方法だと思っているからである。人生の少なくない時間を注ぐ訳だから、とりあえず、楽しく仕事がしたい。今のところ、常にそれが出来ているとは言い難いが、そうありたいと思いながら仕事に臨んでいる。
結びの言葉はもう書いてしまった。
本当に良い本の、良い所を、誰かに伝えるというのはとても難しい。
良い本というのは大体において無駄がないし、何度も読み返す事で、その滋養を吸収出来るものだ。
だから、自分ごときが要約して伝えらる事は無いだろうな。というのが、僕が本をオススメする時に常に抱く本音である。最終的には、「良い本だから読んでください」としか言えない。
それでその人が、その本を手にとって、さらに読んで、「あれは素晴らしい本だったよ」なんて言って貰えると、自分が書いた訳でもないんだけど、なんだか妙に嬉しい。
また、別の問題もある。
良い本を読んだとしても、タイミングが悪ければ、心に残らないという事も、ままある事だ。
かの細菌学者であるパスツールはこんな言葉を残している。
Chance favors the prepared mind (直訳:チャンスは準備された心を好む)
(Chanceの部分を、Good Bookとでも置き換えて下さい。)
昔読みかけて途中で放ったままにしてた本を、ふと、読み返してみて、「う~む・・・これは素晴らしい本じゃないか!」という様な経験が何度もある僕としては、身につまされる言葉だ・・・。
という訳で、良い本の、良い所を伝えるのはとても難しいので、
この「スーパーエンジニアへの道 ~技術リーダーシップの人間学~」をどの様に紹介すればいいかと真剣に悩んでいるうちに、2週間も経ってしまった。(嘘。怠けてただけ)
でもまあ、素晴らしいとだけ言っていても伝わらないのが世の中であるから、
以下、色々と書いてはみますが、やはり、「良い本だから読んでください」というのが結びの言葉です。
(結びの言葉の後に、本題に入るのも変なものだ。)
この前も書いたけど、タイトルだけで判断すると、この本は読者をかなり狭く限定してしまうが、これは組織の中で仕事をする人全てが対象読者と言ってもよいと思う。
そう。一人以上の上司、あるいは、一人以上の部下がいるというあなたは対象読者です。
この本の骨子を無理やりにでも、引き出すとすれば、
「誰かと一緒に仕事する時に(特にあなたがリーダーである場合)、あなたはどの様にすべきか?」という事に尽きると思う。少なくとも僕はその様に読んだ。疑問形なのは、この本が、「はい。これが答えですよ」というHow to本ではなく、「その答えを見つけるのはあなたです」というスタンスで一貫しているからである。
そして、この疑問形のスタンスこそが、良きリーダーの重要な資質の一つでもある。優秀なリーダーというのは、普段から、不断の問いをしながら仕事に臨んでいる(ダジャレじゃないよ)。それは、仕事に対して向けられるし、仕事のやり方に対しても向けらるが、真っ先に疑われるのは常に自分自身という事になる。
こういうスタンスで仕事を続けるのはツライものだ。だるま落としの一番上に乗っかって、自分で足場をスコンスコンと抜き続けるようなもんだ。どんだけ高く積んでも、なかなか上に行かないし、いつもスコンスコンとやっているから、とっても不安定。
でもこういう姿勢こそが優秀なリーダーの絶対条件である。不断の疑問形の思考が、人、物、事の変化を敏感に感じ取り、常にそれにあった行動を起こせるからである。また、状況そのもの自体に変化を起こせるからである。でも、残念な事にそれが常に上手くいくとは限らないのである。というか殆どの場合は上手くいかない。端的に言って、報われない。だから、ワインバーグ御先生も、エピローグをこんな書き出しで始めている。少々長いが、引用する。
「私は読者に対して、問題解決型リーダーに関して知っていることのほとんど全部をお話した。だが、私にはいえないことが一つある。それは読者がそうなることを好むかどうかである。誰もがリーダーになることを好むわけではない。だが多くの人々は、自分がそれを好んでいないと気づくのが遅い。そう気づいた時には、彼らはもとの地位に戻る為に必要な技能や、態度や、幻想を失っているのがふつうである。彼らは自分達の動機を、行動を起こす前に調べてみるべきだったのだ。だがもちろん、彼らはそうはしなかったのである。私は何十年にもわたってリーダーたちのためのコンサルタントを務めているが、いまなお彼らは私にとってまったく理解できない存在である。知性を備えた人間が一体どうして、他人の人生を組織するという危険を冒すのだろう。(中略)理屈は、理屈に基づいて導き出されたのでない結論を打ち消す事は出来ない。だから、理屈をいう代わりにあと二つ、物語を記す事にしよう。(以下略)」
その二つの物語はとても興味深く、示唆的だが、それは皆さんが自身で読んで感じとって欲しい。
もちろん、僕はその二つの物語を既に読んだ。そして、今の所リーダーになんてなりたくないと感じている。同時に、自ら進んでリーダーになろうとする人の気持ちも分かる。恐らくそれは、プライドの問題だ。自分自身に対するプライド。そういうもので人はあまり幸福になれるとは思えない決断を下す事もあるのだ。もちろん、誰も褒めてくれない。失敗すればもちろんだが、成功してもその努力に見合う程には報われない。でも、それが本物のリーダーの宿命である。(余談だが、もしリーダーが大きな顔をしているとしら、その組織は臭え組織という事になる。)
僕としては、その様な不断の問いを続けているリーダーと共に仕事がしたい。そして、自分自身も同じようなスタンスで仕事に臨みたいと考えている。何でかと言うと、不断の問いを続けて仕事の細部に気を配ることは、仕事を楽しくする殆ど唯一の方法だと思っているからである。人生の少なくない時間を注ぐ訳だから、とりあえず、楽しく仕事がしたい。今のところ、常にそれが出来ているとは言い難いが、そうありたいと思いながら仕事に臨んでいる。
結びの言葉はもう書いてしまった。
最近、本を読むのが以前にも増して楽しい。
昔から読んでいる趣味の本は然りで、
仕事関係の技術系の専門書も楽しいが、
最近良く読むのはどちらかと言えばマネジメントよりのもの。
「人月の神話」 フレデリック・P. ブルックス著(2回目)
「ピープルウエア 第2版」 トム・デマルコ 、ティモシー・リスター 著
「Joel on Software」Joel Spolsky 著
「BEST SOFTWARE WRITING」Joel Spolsky 著
「スーパーエンジニアへの道 ~リーダーシップの人間学~」 G・M・ワインバーグ 著
上記の5冊は最近読んだものだけど、どの本も非常に面白かった。
「遅れているプロジェクトへの人員追加は、さらなる遅れをもたらす」という
有名な「人月の神話」の法則は四半世紀もった今日でさえ、理解されていないようだ。ああ。
「ピープルウエア」の「開発プロジェクトで技術よりも何よりも大事なもの――それは人」という真実は、日本のソフトウェア産業の現状とは正反対に位置している。あああ。
「Joel on Software」はMSのExcel開発チームにいたJoel Spolsky が綴ったブログを書籍化したもので、ネット上でも青木靖氏の手によって翻訳されている。japanese.joelonsoftware.com/
まっとうな技術者としで如何にあるべきかが、地に足が着いた視点で語られている。
何よりユーモアのセンスが素晴らしく、本質的な問題を楽しみながら考える助けになる。
「BEST SOFTWARE WRITING」は、そのJoel Spolsky氏が、ソフトウェアの世界で著名な人達の文章を集めたオムニバス形式の読み物になっている。これは、非常に面白かった。
かなり笑えるものから、ソフトウェアの世界に関するかなり踏み込んだ鋭い考察、
実践的なプログラミング法まで、幅広く、飽きない。極めつけは、ホワイ・ザ・ラッキースティフによるRubyコース。この人は、天才なのかイカれているのか紙一重で分からないけど、このRubyコースはとても楽しかったです。ネットでも公開されているwww.aoky.net/articles/why_poignant_guide_to_ruby/
で、
「スーパーエンジニアへの道 ~リーダーシップの人間学~」G・M・ワインバーグ
なんだけど、これは本当に素晴らしい本だった。
僕が、コレまでの生涯で読んだ本の中で10指に入る程、素晴らしかった。
タイトルだけ見ると、かなり読者を限定してしまいそうだし、
自己啓発の臭いもするが、大きな誤解で、およそ、組織の中で働く全ての人間とって有用な真実が詰まってる。
これについては改めてエントリにしようと思う。
あっ、気が付けば、エイプリルフール。
昔から読んでいる趣味の本は然りで、
仕事関係の技術系の専門書も楽しいが、
最近良く読むのはどちらかと言えばマネジメントよりのもの。
「人月の神話」 フレデリック・P. ブルックス著(2回目)
「ピープルウエア 第2版」 トム・デマルコ 、ティモシー・リスター 著
「Joel on Software」Joel Spolsky 著
「BEST SOFTWARE WRITING」Joel Spolsky 著
「スーパーエンジニアへの道 ~リーダーシップの人間学~」 G・M・ワインバーグ 著
上記の5冊は最近読んだものだけど、どの本も非常に面白かった。
「遅れているプロジェクトへの人員追加は、さらなる遅れをもたらす」という
有名な「人月の神話」の法則は四半世紀もった今日でさえ、理解されていないようだ。ああ。
「ピープルウエア」の「開発プロジェクトで技術よりも何よりも大事なもの――それは人」という真実は、日本のソフトウェア産業の現状とは正反対に位置している。あああ。
「Joel on Software」はMSのExcel開発チームにいたJoel Spolsky が綴ったブログを書籍化したもので、ネット上でも青木靖氏の手によって翻訳されている。japanese.joelonsoftware.com/
まっとうな技術者としで如何にあるべきかが、地に足が着いた視点で語られている。
何よりユーモアのセンスが素晴らしく、本質的な問題を楽しみながら考える助けになる。
「BEST SOFTWARE WRITING」は、そのJoel Spolsky氏が、ソフトウェアの世界で著名な人達の文章を集めたオムニバス形式の読み物になっている。これは、非常に面白かった。
かなり笑えるものから、ソフトウェアの世界に関するかなり踏み込んだ鋭い考察、
実践的なプログラミング法まで、幅広く、飽きない。極めつけは、ホワイ・ザ・ラッキースティフによるRubyコース。この人は、天才なのかイカれているのか紙一重で分からないけど、このRubyコースはとても楽しかったです。ネットでも公開されているwww.aoky.net/articles/why_poignant_guide_to_ruby/
で、
「スーパーエンジニアへの道 ~リーダーシップの人間学~」G・M・ワインバーグ
なんだけど、これは本当に素晴らしい本だった。
僕が、コレまでの生涯で読んだ本の中で10指に入る程、素晴らしかった。
タイトルだけ見ると、かなり読者を限定してしまいそうだし、
自己啓発の臭いもするが、大きな誤解で、およそ、組織の中で働く全ての人間とって有用な真実が詰まってる。
これについては改めてエントリにしようと思う。
あっ、気が付けば、エイプリルフール。
もちろん前回のエントリは、今回の枕です。
「自分探しが止まらない」速水健朗 著 (ソフトバンク新書)
という本が興味深い。視点も広い。
新書で読みやすいので、出来れば読んで欲しい。(大体2時間弱で読める。)
あなたが団塊ジュニア世代(1972年~1981年生まれ)の近辺であれば、
おそらく、思い当たる経験が幾つか書かれているだろう。(ちなみに僕は81年生まれ)
「自分探し」の定義は、この本を読んでもらうとして、
バックパック一つでの海外放浪、自己啓発、新興宗教、ワーホリ
ニューエイジ、ボラバイト、ホワイトバンド、ロハス、etc・・・。
という様な事が、自分探し、あるいはその派生系として取り上げられている。
なんか「自分探し」なんてテーマを持ってくると、
否定的に受け取られるかもしれないが、
この本のスタンスも、この僕自身のスタンスもそういう所にはない。
現に、僕の数少ない友人達の中にも、自分探しに奔走している人が何人もいるし、
僕自身にしてみても、大学を中退して、別の大学に入りなおしたりしている。
海外ではないけど、国内でバックパッカーもやった。就活で自己啓発を試みたが、上手くいかなかった。
そして、こんなブログを書き綴ちゃったなんかりしている。イタイ子だ。
著者は、それが社会的な構造に誘発された現象だと指摘している。
80年代末から始まった個性重視の教育(それに続くゆとり教育)、就職活動時の自己分析、
子供の頃から「やりたいこと」をやれ、という声が至る所から聞こえてくるのが、現代だと。
世界の第一線で活躍するスポーツ選手(野球、サッカー、ゴルフ、フィギュアスケート)
などが引き合いに出されて、早いうちから「やりたいこと」を見つける事は、良い事だ。の様に語られる。
(60年代末のカウンターカルチャー/学生運動、その後の経済成長/消費社会、バブルとその崩壊、といった文脈もあるけれど、そこは上記新書に詳しいので割愛)
僕も、とりあえず、その様な教育スキームの中で育ってきた。
そして、さっきも述べた様に、それ自体が悪いとは思わない。
「自分探し」をして、それで「やりたいこと」が見つかれば、
それは、きっと本人にとってハッピーな事だろうから。
でもね・・・。当たり前の事なんだけど、
ハッピーじゃない場合の結末もありますよ・・・・。という方の事は誰も言わないけれど、
そういう事を語らないで、「やりたいこと」やれ!と言うのはやはり無責任だとは思う。
でもって、ハッピーじゃない事になっちゃった人に向けて、「自己責任」はあんまりだ。とも思う。
世の中には、イチローになり損ねた元野球少年のサラリーマンがゴマンといるはずだし、
逆に言えば、そういう人達がいればこそ、イチローの人生が輝かしものしてメディアに乗っかる訳だから。
これ以上突っ込むと、青臭い、徒手空拳のつまらん社会批判になるので止めるが、上述の事が、
「やりたいこと」をやれ!を補完する形で語られていないという事には同意してもらえると思う。
そして、「やりたいこと」をやれ!と言われながらも、それを見つけられなかった、あるいは、それを自分の人生、仕事に上手く結び付けられなかった人が、自分探しをやり始める。俺/私が求めているのこんな人生じゃない、俺/私にはもっと別の可能性があるかもしれないと思って。
ここまで書くと、なんとなく前回のエントリにつながる・・・。かな。
>でも、仁斎の講義と、現代スピリチュアル説教は、
>その動機やスタンスにおいて全く性質が異なるものだ。
前回のエントリの
現代スピリチュアル説教は自分探しの事である。
仁斎の学問の話に戻ろう。
セレブ町人や、百姓が仁斎の講義を聞きに来たのは、
もちろん、仁斎の講義が面白く楽しかったからだが、それだけではない。
仁斎の学問は、商人や百姓が自分の仕事の役に立つものだったのだ。
もっと言おう。どうして生活したらいいかという事を教えるのが学問だったのだ。
生活の知見なんていうと、古臭い言い方かもしれないが、それが当時の学問だった訳だ。
ちょっと飛躍するが、端的に、
江戸時代の「学問」
現代 の「自分探し」
と並べると、どうだろう。
馬鹿っぽい、安易なまとめ方だが、
300年で人間(日本人)の知恵とでも呼ぶべきものは進歩しただろうか。
という様な考え方をしてみる事にはある程度の意味があると僕は思う。
やってみたから分かる事だけれど、「自分探し」なんて馬鹿馬鹿しいものだし、ある意味で狂気に近い部分もある。自分探しが不毛なのは、「自分を探している自分はいつもの自分」というところに尽きる。現代スピリチュアル説教を聞いても、テレビを消せば、いつもの自分に戻る。海外放浪してみても、家に帰れば、いつもの自分に戻る。
「やりたいこと」を探す事は間違ってはいないけれども、
ホントに面白く、やりたい事は、日々の生活、仕事の中からしか立ち上がってこない。
自分の日々を見つめない限り、絶対に見つからない。
でもって、「やりたいこと」が見つかると、そこに達する為のステップが100くらいある。
という辺りの事が、社会人生活2年目を迎えて、
ある閾値を越えて実感として少し掴めた感があるので、こんなエントリを書いてみた。
それなりにしんどい2年間だったが、それなりの意味があったという事だろう。
あっ、また深夜1時だ。寝なきゃ。
「自分探しが止まらない」速水健朗 著 (ソフトバンク新書)
という本が興味深い。視点も広い。
新書で読みやすいので、出来れば読んで欲しい。(大体2時間弱で読める。)
あなたが団塊ジュニア世代(1972年~1981年生まれ)の近辺であれば、
おそらく、思い当たる経験が幾つか書かれているだろう。(ちなみに僕は81年生まれ)
「自分探し」の定義は、この本を読んでもらうとして、
バックパック一つでの海外放浪、自己啓発、新興宗教、ワーホリ
ニューエイジ、ボラバイト、ホワイトバンド、ロハス、etc・・・。
という様な事が、自分探し、あるいはその派生系として取り上げられている。
なんか「自分探し」なんてテーマを持ってくると、
否定的に受け取られるかもしれないが、
この本のスタンスも、この僕自身のスタンスもそういう所にはない。
現に、僕の数少ない友人達の中にも、自分探しに奔走している人が何人もいるし、
僕自身にしてみても、大学を中退して、別の大学に入りなおしたりしている。
海外ではないけど、国内でバックパッカーもやった。就活で自己啓発を試みたが、上手くいかなかった。
そして、こんなブログを書き綴ちゃったなんかりしている。イタイ子だ。
著者は、それが社会的な構造に誘発された現象だと指摘している。
80年代末から始まった個性重視の教育(それに続くゆとり教育)、就職活動時の自己分析、
子供の頃から「やりたいこと」をやれ、という声が至る所から聞こえてくるのが、現代だと。
世界の第一線で活躍するスポーツ選手(野球、サッカー、ゴルフ、フィギュアスケート)
などが引き合いに出されて、早いうちから「やりたいこと」を見つける事は、良い事だ。の様に語られる。
(60年代末のカウンターカルチャー/学生運動、その後の経済成長/消費社会、バブルとその崩壊、といった文脈もあるけれど、そこは上記新書に詳しいので割愛)
僕も、とりあえず、その様な教育スキームの中で育ってきた。
そして、さっきも述べた様に、それ自体が悪いとは思わない。
「自分探し」をして、それで「やりたいこと」が見つかれば、
それは、きっと本人にとってハッピーな事だろうから。
でもね・・・。当たり前の事なんだけど、
ハッピーじゃない場合の結末もありますよ・・・・。という方の事は誰も言わないけれど、
そういう事を語らないで、「やりたいこと」やれ!と言うのはやはり無責任だとは思う。
でもって、ハッピーじゃない事になっちゃった人に向けて、「自己責任」はあんまりだ。とも思う。
世の中には、イチローになり損ねた元野球少年のサラリーマンがゴマンといるはずだし、
逆に言えば、そういう人達がいればこそ、イチローの人生が輝かしものしてメディアに乗っかる訳だから。
これ以上突っ込むと、青臭い、徒手空拳のつまらん社会批判になるので止めるが、上述の事が、
「やりたいこと」をやれ!を補完する形で語られていないという事には同意してもらえると思う。
そして、「やりたいこと」をやれ!と言われながらも、それを見つけられなかった、あるいは、それを自分の人生、仕事に上手く結び付けられなかった人が、自分探しをやり始める。俺/私が求めているのこんな人生じゃない、俺/私にはもっと別の可能性があるかもしれないと思って。
ここまで書くと、なんとなく前回のエントリにつながる・・・。かな。
>でも、仁斎の講義と、現代スピリチュアル説教は、
>その動機やスタンスにおいて全く性質が異なるものだ。
前回のエントリの
現代スピリチュアル説教は自分探しの事である。
仁斎の学問の話に戻ろう。
セレブ町人や、百姓が仁斎の講義を聞きに来たのは、
もちろん、仁斎の講義が面白く楽しかったからだが、それだけではない。
仁斎の学問は、商人や百姓が自分の仕事の役に立つものだったのだ。
もっと言おう。どうして生活したらいいかという事を教えるのが学問だったのだ。
生活の知見なんていうと、古臭い言い方かもしれないが、それが当時の学問だった訳だ。
ちょっと飛躍するが、端的に、
江戸時代の「学問」
現代 の「自分探し」
と並べると、どうだろう。
馬鹿っぽい、安易なまとめ方だが、
300年で人間(日本人)の知恵とでも呼ぶべきものは進歩しただろうか。
という様な考え方をしてみる事にはある程度の意味があると僕は思う。
やってみたから分かる事だけれど、「自分探し」なんて馬鹿馬鹿しいものだし、ある意味で狂気に近い部分もある。自分探しが不毛なのは、「自分を探している自分はいつもの自分」というところに尽きる。現代スピリチュアル説教を聞いても、テレビを消せば、いつもの自分に戻る。海外放浪してみても、家に帰れば、いつもの自分に戻る。
「やりたいこと」を探す事は間違ってはいないけれども、
ホントに面白く、やりたい事は、日々の生活、仕事の中からしか立ち上がってこない。
自分の日々を見つめない限り、絶対に見つからない。
でもって、「やりたいこと」が見つかると、そこに達する為のステップが100くらいある。
という辺りの事が、社会人生活2年目を迎えて、
ある閾値を越えて実感として少し掴めた感があるので、こんなエントリを書いてみた。
それなりにしんどい2年間だったが、それなりの意味があったという事だろう。
あっ、また深夜1時だ。寝なきゃ。
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