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モンキービジネス 2009 Fall vol.7 物語号 モンキービジネス 2009 Fall vol.7 物語号
柴田 元幸

ヴィレッジブックス 2009-10-20
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物語号

巻頭の村上春樹のエッセイが素晴らしかった。

これは、スイスのザンクトガレン修道院図書館の記念カタログの序文として書かれたものらしいけど、こんな序文を読んだら、多分それだけで素敵な気分になれるだろうと思う。

最初だけ少し引用する。

  小説家とはもっとも基本的な定義によれば、物語を語る人間のことである。人類がまだ湿っぽい洞窟に住んでいて、堅い木の根を囓ったり、やせた野ネズミの肉を焙って食べたりしていた古代の時代から、人々は飽きることなく物語を語り続けてきた。たき火のそばで身を寄せ合って、友好的とはお世辞にも言えない獣や、厳しい気候から身を護りながら、長く暗い夜を過ごすとき、物語の交換は彼らにとって欠かすことのできない娯楽であったはずだ。
  そして言うまでもないことだが、物語というものは、いったん語られるからには、上手に語られなくてはならない。愉快な物語はあくまで愉快に、怖い物語はあくまで怖く、荘重な物語はあくまで荘重に語られなくてはならない。それが原則である。物語は聞く人の背筋を凍らせたり、涙を流せたり、あるいは腹の皮をよじらせたりしなくてはならない。飢えや寒さをいっときであれ、忘れさせるものでなくてはならない。そのような肌に感じられる物理的な効用が、優れた物語にはどうしても必要とされるのだ。なぜなら物語というものは聞き手の精神を、たとえ一時的にせよ、どこか別の場所に転移させなくてはならないからだ。おおげさに言うなら、「こちらの世界」と「あちらの世界」を隔てる壁を、聞き手に越えさせなくてはならない。あちら側にうまく送り込まなくてはならない。それが物語に課せられた大きな役目のひとつなのだ。
 『monkey business 2009 Fall vol.7 物語号』p14~15

聞き手の精神を転移させるという表現が、とても素敵だなと思う。

小説を読む人間が求めているのは、確かに、精神が別の世界に移ってしまう事で、優れた小説や物語は、おしなべて、現実をしばしば忘れ去れる力をもっているものだし、多くの小説や物語を好む人達は、そういった体験を求めて小説や物語を読む訳だ。文体がどうだとか、構成がどうだとか、やっぱそういう問題は二の次で、如何に読み手の精神を飛ばせるかが、良い小説や物語かの最初の判断基準になるんだろうと思う。

自分はあまり小説を好んで読む人間ではなけど、基本的に読書に求めている体験は、どれだけその本の中の世界に没入できるかだというのは同じだと思う。科学書ですら、その説明する世界観の魅力を感じとれば、しばし現実から精神は離れる。一番好きな作家の小林秀雄は批評家だけれども、あの力強い文体の魅力には、抗しがたく、心は純粋な思考の世界に没入する。

このエッセイでは、この後に物語そのものがもつ自律性について語られ、物語そのものはそれを生み出した作家に対してすらコミットメントを要求してくるという話に進み、それは非常に興味深い。

読者も同じように、物語によってコミットメントを要求される場合がある。もちろん、物語の大きな役目は聞き手の精神を別の場所に転移させる事にもあるとは思う。そして物語が終われば、聞き手の精神は自分の肉体に戻り、また現実が始まる。『ああ、おもしろかった』で終わる場合もあれば、その余韻がその日中は持続する場合もあれば、一週間続く場合もある。

でも、本当に優れた物語は、聞き手の精神を転移させるだけでは終わらない。その精神を変えさせてしまう程の強力なパワーをもっている場合もある。ある場合には、酔狂とでも呼べる状態にまでしてしまう事さえもある。

ジョン・レノンを殺害した、マーク・チャップマンは、殺害時、懐に『The Catcher in the Rye』を忍ばせていた。もちろん、それが全ではないが、『The Catcher in the Rye』がチャップマンに精神に多大な影響を与えたという事は間違いないだろう。その様に、物語というのはある場合には、非常に危険な存在にもなり得る。でもそこまで聞き手の精神に迫れる物語という意味で、やはり、『The Catcher in the Rye』は優れた小説だし、それによって救われている人間がどのくらい居るのかは見当もつかない。

ある小説や物語や本によって、人のその後の人生がガラッと変わってしまう。そういう事は、世の中では、結構な頻度で起きている。自分でもそういう体験は何度かある。別の世界に飛んでいた精神が、戻ってくると、現実がガラッと変わってまったく別のものに見えるようになっている。そういう体験を何度かすれば実感として分かることだけれども、現実もまた物語に過ぎないし、ある意味では、別の世界から転送されてきた精神がたまたま、今の肉体に宿っているに過ぎないと考えることはそんなに突飛な発想でもない。

物語とは、ある意味で現実を抽象化した存在に過ぎないけれども、それは、物語が現実を相対化できる力をもっているという事も意味する。そんな風に現実を相対化する力が、人に現実を生きる希望を与えたりする。そして、物語は自律性をもつものだし、それを生み出した作家が死んでも、何十年たっても、その精神転移の作用を残すし、ある場合には、その力を強めたりもする。もっと言えば、物語は現実の別の在り方に過ぎないのだ。だからこそ、実際の厳しい現実にすら拮抗できる希望にもなり得るのでないか?

このエッセイを読みながらなんとなくそんなことを思った。

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