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平成オトコ塾―悩める男子のための全6章 (双書Zero) 平成オトコ塾―悩める男子のための全6章 (双書Zero)

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文化系トークラジオLifeでのゲスト渋谷知美氏がキャラ的に面白かったので購入。内容は、文化系男子の為の人生指南書とでも呼べるもの。とりあえず、目次が凄いので抜粋。

第1章:その「男の友情」は役にたつか?
        1 頼りない「男の友情」
        2 女子から「癒し」を引き出す男子
        3 「男の友情」はしんどい
        4 「男の友情」から始める
第2章:「僕がキミを守る」と思っている?
        1 そのワナにご注意!
        2 二つの「守る」
        3 仕事を通じて「守る」、の問題点
        4 複線型「守る」ならOKか?
        5 「他力本願で何がわるい」という感性
        6 「守り-守られる」関係へ
第3章:非モテはいかにして生きていくべきか
        1 「非モテ」でもハッピーな社会を
        2 結婚資金提供案のダメさ加減
        3 恋愛機会提供案のダメさ加減
        4 非モテのサバイバル戦略
        5 非モテの「思想的セーフティーネット」
第4章:暴力はなぜ、いけないか
        1 見たくないものを見る勇気
        2 男が男にする暴力とは?
        3 心に留めておきたい三つのこと
        4 男女間の暴力を考える
        5 では、男はどうしらよいか
第5章:包茎手術はすべきか否か
        1 若い男子をもっとも悩ませるのは?
        2 大事な性器がズタズタに
        3 不健全きわまりない包茎病院
        4 「仮性包茎」包茎にあらず
        5 包茎をめぐる「常識」を疑え
        6 「江戸時代から包茎は恥だった」は本当か?
第6章:性風俗に行ってはダメか
        1 ダメかどうかを問う前に
        2 性風俗に行く男性は(おそらく)五人に一人から二人
        3 風俗嬢がしていることは「労働」である
        4 「セックスワーク」という概念
        5 性労働へのよくある批判
        6 もし風俗に行くのなら

この筑摩の双書Zeroというのは、今の20~30代の若者を対象読者とした新しい批評系単行本という位置づけらしい。既存の社会構造と新しい価値観の狭間で苦しむ若者達への提言といった位置づけだろうか?

目次を見るだけでもかなり、センシティブな話題にバッサリと切り込んでいる。読んでいても、著者の歯切れの良さは結構気持ちいいものがある。

それぞれの章で、対象読者層の若年層男子が抱える問題に対する提言を行っているのだが、必ずのその前、既存のマッチョな男性観や、社会通念の見直しが行われ、その後に、今の社会状況からして、こういう結論になるし、それでもいいじゃん。もしくは、そういう考え方もあるかもしれないけど、こんな風に考える事も出来るとか、別に恥じる事はないよ!といった形でのアドバイスがおくられる。

今、既存の社会構造は大きく変化、あるいは崩壊しようとしている。大きくは経済問題があり、それに付随する雇用問題があり、その結果として結婚にも育児にも教育にもその歪みが連鎖的に発生している。少なくともその様に自分には見える。

というか、実は「しようとしている」でもなくて、状況は既に変わってしまった。ただ制度の方がそっちに追いついていないだけ。また価値観の方も、特に年配になるとそうだけど、全然追いついていない。という所で、その狭間で、若年層の苦しみが生まれる。特にマイノリティはキツい。

特に、もはやウンザリするがマッチョな男性観というのは多分に残っている。会社とかはやっぱり男性社会だから状況は結構酷いと思う。

そんな状況下で苦しむ若者に、「そんな下らない価値観は捨てちゃいなよ!」状況は変わったんだし、だったら、それに合わせた考え方があるし、ほらこんな風にも考えられるしさ。別に人と違ってもいいんじゃないと優しく諭す。

と書いてくると、女の学者に慰められているなんて男として云々。。。という声も聞こえてきそうだけど、現代の若年男子はそのぐらい疲弊しているという事かもしれない。

ただ、客観的に考えても、今のような状況は辛い。価値観の選択肢は非常に多様になった。草食系男子など言葉が市民権を得るくらいだから。でも、実際に社会の中で生きる上での選択肢はそれ程多くない。そして、社会通念とでも呼べるものは、社会制度とセットで旧態依然のままだ。だから、その自分の選択した価値観を守ろうとすると、必然的に社会と対立しなければならない自体になる。それが嫌なら、迎合するしかない。

もちろん、これは基本的に制度が変わっていかない限りどうしようもない問題である。でも、個人レベルで出来る事もある。

昔予備校に通っていた頃、小論文の先生が「本当に頭がいい人というのはね、人の気持ちが分かる人のことよ」と言っていて、それはそうだなと思ったものだけど、要するに、自分と異なる価値観を持った人を尊重出来るかどうかという、至極当たり前な問題をどう考えるかという事に尽きる。

もちろん、自分以外の全て気持ちが分かったらそれは神様だから、あり得ないけど、少なくとも自分に関係する人間の気持ちを汲む事は出来る。

一番最悪なのは、社会通念とか会社のルールとかを無批判に援用して、さも自分の意見であるかの様に、それは間違っているとか批判する人。居ますね。疲れますね。

その点本書は、こういう考え方にはこういう背景があるけど、でも今の状況とはマッチしないから、そんな風に考えて悩む必要はないと説く。そういう視点で今の若者を支える言論がこうやって増えてくるのは、状況が少しづつ変わろうとしているからなのかもしれないし、よい傾向だよなぁと思いながら楽しく読ましてもらった。
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物語論で読む村上春樹と宮崎駿  ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21) 物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)

角川書店(角川グループパブリッシング) 2009-07-10
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とりあえず、文章が読みにくいけれども。。。。

まあ、それはよしとして、荒っぽくまとめると、村上春樹と宮崎駿の作品には、物語の構造しかなく、それ故に世界的な評価を得ていると分析している。構造というのは、神話の構造そのものだったり、文学理論とかやると出てくるロシア・フォルマリズムとかの話です。まあ、細かい分析は、同書を読めば丁寧に解説してある。納得出来る部分もあります。

で、

村上春樹と宮崎駿を著者(大塚英志)は評価しないよというのが結論である。

誰かの与えた物語によって自己実現した気になってしまうことはいいかげんやめて「近代的個人」に至る別のツールを選択すればいい。
  物語では現実は解決しないのに、物語のように現実を再構成して、そして理解し解決しようとしているのが9・11後のぼくが「再物語化した」と呼ぶところの世界である。
  物語批判は物語の外にこそ向けられるべきであり、しかも物語ではない因果律によって世界を理解し、記述していくかについては本当はたくさんの思想や試みが書籍として世界中に今もある。
  物語などは所詮はただの消費財であるべきだ、とぼくがいいつづけるのはそれ故である。
  少なくとも「構造しかない」物語にこの国全体が「とてつもない日本」という空虚な意味を補填し、日本が世界に届いたと思い込むことだけは止めた方がいい。

『物語論で読む 村上春樹と宮崎駿 ― 構造しかない日本』 p242-243

「誰かに与えた物語によって自己実現した気になって」いるような日本人がどれくらいかは知らないし、「近代的個人」を目指すべきなのかは良くわからないが、「物語ではない因果律によって世界を理解」できると著者は本気で思っているのだろうか?因果律というのは、物語を拒否した世界の理解の仕方かもしれないが、それは人間にとってそれ程有効な方法論だろうか?例えば、みんなが因果律で世界を理解しようとしたとして、そんな世界にぼくは住みたくないですね。。。60年前にこんなことを言っているおじさんがいました。

  諸行無常という言葉も誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない、昔から誤解されていた。平家にある様に「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し」そいう風に、つまり「盛者必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。太田道灌が未だ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦しく思い、おごれる人も久しからず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざる人も久しからず、と書いたという逸話があります。
  この逸話は、次様な事を語っている。因果の理法は、自然界の出来事のみらず、人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については何事も知らぬ。常無しとは又、心なしという事であって、全く心ない理法というものを、人間の心が受容れる事はまことに難しい事である、そういう事を語っております。私達の心の弱さは、この非人間的な理法を知らず知らずにうちに、人間的に解釈せざるを得ない。因果話や宿命論が現れるのも、そういう理由によるものと思われます。言うまでもなく、近代の科学は、そんな曖昧な解釈を許さない。因果律は、その全く非人間的な純粋な姿で、私達の上に君臨している。という事は、私達がまともに見る事が出来ぬものから、目を外らして了ったという事だ。因果律という、抽象的な図式を、何処か浮世の風の当たらぬところに、しまいこんで了ったという事です。これは私達の心が強くなったという事でしょうか。それとも、人間の心の弱さの反面を語るものだろうか。いずれにせよ、ここに、自然の世界と価値の世界との分離が現れた。近代文明は、この分離によって進歩した事に間違いはないが、やがて私達は、この分離に悩まねばならぬ仕儀に立ち到った。現代の苦痛に満ちた文学や哲学は、明らかにその事を語っているのであります。

『栗の樹』 ~私の人生観~ p300

この後に、因果律から立ち上がった釈迦の話が続く訳だけど、因果律で世界を理解するなんて事が人間に出来ると思っているのでしょうか?著者は。。。

まあ、そんな60年前の先人の言葉を引き合いに出さなくても、自分の近親者の死を因果律で理解する人がいるだろうか。ちょっと想像力を働かせれば分かることだと思う。「物語などは所詮はただの消費財であるべきだ」など本気で言っているとしたら、ちょっと首を傾げざるを得ないけどな。。。

僕の個人的な評価は置いといても、村上春樹と宮崎駿の物語に救われている人は、かなり沢山いると思うし、物語が何も解決しないとしてもそれが本当に意味を持たないかどうかわからないでしょう?と思うけど。それに、人の自我は、確かに与えられた物語でも形成されるけど、それ以外のファクターも当然あるわけで、そんな簡単に自己実現なんてしないでしょうよ。と思う。

著者の細かい分析とか解釈は凄いし、確かに面白いんだけど、根本の処でこういう事を本気で書いているとしたら、冗談だとしても哀しすぎる。少なくとも世界に届けたくない言説はこっちだよ。こっち。
中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書) 中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ (ちくまプリマー新書)

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極東ブログ ― [書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)


こちらも極東ブログで取り上げられていた。ので、興味をもって読む。

哲学の本はその昔結構沢山読んで、いろいろと得るものは多かった。特に既に亡くなられてしまった池田晶子の本は沢山読んだ、当時までに出ていたものは全部読んだ。彼女は小林秀雄に心酔していて、その影響で小林秀雄を読み始めるきっかけにもなった。これにはマジでかなり感謝している。

小林秀雄に心酔している人間は世の中に結構いるんだぁという事は、結構後になって知った。吉本隆明山本七平は有名。極東ブログのfinalvent氏もそうだし、この前芥川賞をとった川上未映子もそうだ。

そしうした心酔者が多い故に、小林秀雄を馬鹿にするインテリも結構多い。下らんとか、近代批評を駄目にした張本人とか。まあ、そういう話は今回は関係ないのでしないけど、小林秀雄を馬鹿にする事で安心しているインテリなんて僕は信用しませんよ。。。と。

で、

哲学の本を乱読している時に竹田青嗣の本も何冊か読んだ。が、当時はそれ程関心を持たなかった。自分の興味はもっとアグレッシブな文章の方(特に小林秀雄の文章みたいに強烈なやつ)にあったので。(まあ、若いとどうしてもそいうものに惹かれる)

今でも竹田青嗣の本は殆ど読まないが、この新書を読んで、「ああ、確かに長年思索を続けた人の言葉だな」と思わせる静謐な感じの説得力はあった。

この『ちくまプリマーブックス』という新書は、対象が中高生というコンセプトの新書だが、およそ中高生では理解は難しいだろうと確かに思う。

極東ブログでも引用されているが、

世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません。これを理解できないかぎり、人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです。


『中学生からの哲学「超」入門』 p81

この腑に落ちるという経験をもつ中学生なんてそうそういないだろうから、この理解は、どうしても概念的なものになってしまうと思う。でも、本当に「腑に落ちる」というのは経験としてある。べつにそれで人が丸くなるとか善人になるわけでもないが、それはある意味で自分のそれまでの世界観を一旦うっちゃる事でもある。

極東ブログでは、

 確かにネットの聡明でない人々の対話ともいえない罵倒の交換は、歴史に偽装されたり倫理に偽装された「真理」の信奉者や、真実はなにもないとする懐疑論をポストモダン的に装ったペダンティズムなどが見らるものだ。聡明になれなかった人々である。
 聡明になった人はどうするかといえば、開かれた対話、開かれた問い、問うことを禁止されない問いへの多様な解答の試みから、社会的な合意を形成していこうとする。なるほどそうかとも思う。


と書いてあるが、聡明になった人は、問うこと止めないようになる。ホントに死ぬまで問い続けるし、考える事をやめない。「問うても決着の出ない問い」であっても問うことをやめない。多少逆説的かもしれないが、それが「腑に落ちている」という事の意味でもあると思う。

で、本当に大変なのは、その腑におちてからで、腑におちた後も人生は続くし、人は社会の中で自分の位置づけを探していかなければならない。世の中には、「極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回す」人はたくさんいる訳で。それに、社会にいれば当然社会的な欲望とも折り合いをつけていかなければならない。本書で言うところの『一般欲望』とつける折り合いの事だ。聡明なった所で人は別に悟りを開いて坊さんになった訳ではないので、そういうものの中で人は簡単に聡明ではなくなる。

そこで、「自己ルール」の話になる。

社会の善悪のルールは、法律とはまた別に、ふつうの道徳とか、慣習(習俗)のルールと言われているものです。でも自分の中の善悪のルールは、これとはまた違うのです。自分の内の内的なルールを、私は、「自己ルール」と呼びます。社会のルールと「自己ルール」の違いをうまく区別して理解することは、とても人間を聡明します。

『中学生からの哲学「超」入門』 p141~142

ここもまた難しいが、これも別に中学生が考えつく様な俺様ルールの事ではない。社会ルールと別個に、「自分の意志をもつこと」で、自分なりの欲望の昇華の仕方を身につける事である。そして、その「自己ルール」は相対的な常に再考され続けるものでもある。

個人的には「自己ルール」を「信念」と解してもいいと思っている。「信念」という何かしら不変のものというイメージがつきまとうが、それは単なる狂信で、本来は常に再考され続けるダイナミズムをもっている。

ただ、そのような「自己ルール」を持つことは簡単ではない。

神話や宗教などは、本来そういった「自己ルール」を作り上げる為の補助線として機能をすべきだし、哲学も本来はそうだろうと思う。それらは、ある意味で人が生きる上でのよすがとしてあるべきものだと思う。

けれども、それらは現代では補助線を引いてくれる程の力をもっていないし、宗教なんて昨今とっても評判がわるい。本来これは人を聡明にしてくれるハズのものだが、どうもそういう評判は聞かない。。。

「自己ルール」を持つことが簡単ではなくなってしまったのは、それら(神話とか宗教とか哲学とか)が、もう社会を横断的に説明してくれる様な大きな物語を提供できなくなってしまった為かもしれないし、単純にくだらん(あくまで他人からみれば)「自己ルール」を再編し続ける事なんて、大変だからかもしれない。

ともあれ、この2009年のこの国で「自己ルール」なんてもんを後生大事にしていくのは結構大変だし、そもそも自分自身に対して説得力をもった「自己ルール」を構築するためには、相当に知識を蓄えていかなきゃならない。でも、腑におちた人は、おそらく聡明である事をやめないだろう。それが腑に落ちる事の意味なので。

話は変わって、

今日は「衆院総選挙」で、まあ多分民主が政権とんだろう思いながらTVつけると、まあ実際その通りな訳だけど、ちょっと有権者の皆さんの態度は狂気が見え隠れして怖い。別に自民を弁護する訳でもないし、民主の理想高き(でも、根拠乏しき)マニュフェストもどうでもいいけど、社会のルールと「自己ルール」を混同しているのでは思わさせる有権者が多い。。。もちろん社会のルールを形成する為に選挙は大事かもしれんけど、怒りで投票してもどうにもならんと思うのだが。。。

べつに、自分は聡明な人間ではないけれども、くだらん「自己ルール」くらいはもっていて、それは社会がどうこうしてくれるもんではない事くらい知っているし、それでも、社会のルールがある程度は大事な事も自覚している。ただ、静かに思索を続けて行動する人の声はあんまり聞こえてこないもんだけれど、そういう人はいたるところいるもんだという事は社会に出ると学べるし、最近はそういう声しか聞きたくない。
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極東ブログ ― [書評]新しい労働社会―雇用システムの再構築へ(濱口桂一郎)

極東ブログに触発されて読んでみる。

新書は新書でも岩波新書なので、要求される前提知識が高くて、それなりに読むのは疲れるけど、昔の新書ってこの程度のレベル感で書かれていたような気もするな。現状の労働問題の総括としては、多分これ以上のものは見つからないと思う。

まあ、詳しい書評は極東ブログの方を見てもらうとしても、実際の現場で働く人間の視線で読んでも一々納得出来る。

特に、

 もちろん、実際には労働者が従事するのは個別の職務です。しかし、それは雇用契約で特定されているわけではありません。あるときにどの職務に従事するかは、基本的には使用者の命令によって決まります。雇用契約それ自体の中には具体的な職務は定められておらず、いわばそのつど職務が書き込まれるべき空白の石版であるという点が、日本型雇用システムの最も重要な本質なんのです。こういう雇用契約の法的性格は、一種の地位設定契約あるいはメンバーシップ契約と考えることができます。日本型雇用システムにおける雇用とは、職務ではなくメンバーシップなのです。
 日本型雇用システムの特徴とされる長期雇用、年功賃金制度および企業別組合は、すべてこの職務のない雇用契約という本質からそのコロラリー(論理的帰結)として導き出されます。

『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』 p3~4

という、日本社会の雇用の本質を暴いてる部分は、見事としか言いようがない。日本で通常サラリーマンとしてのもっとも一般的な雇用形態は、いわゆる総合職という言い方がなされるが、これはまさに従事する職務が明確なっていない事を体現している言葉だろう。だから、それは新卒採用時に結ぶ企業とのメンバーシップ契約であって、職務を特定した雇用ではないわけだ。

それぞれの職務に高度な専門性を求められるIT業界でも、総合職という形で雇用がなされているは、日本の独自性を顕著に表していると言えるかもしれない。

また、メンバーシップ契約という観点でみれば、年功序列や終身雇用というシステムの合理性も確かに納得出来る。そして、高度経済成長期からバブル崩壊までは成立したこの合理性が、それ以降は成立しなくなり、成果主義という言葉が導入されていく背景も納得ができる。結局の所、成果主義は、成果に対するコストが大きくなってしまった正社員に対する体の良い良い訳として導入された訳だ。

年功序列というシステムを維持したまま、建前として(つまりコストカットの言い訳として)成果主義を導入してしまった為に、それに対する批判が当然のごとくおこり、成果主義は、日本の風土にはマッチしない考え方として排斥されてしまう。しかし、それは成果主義そのもの問題ではなく、日本独自のメンバーシップ契約を維持したままでは成立しない考え方だっただけだ。

年功序列という賃金制度の合理性を支えるのは、若い時は成果に対する給料が相対的に低いのは、年を重ねた時増える給料への貯金であるという考え方だ。終身雇用が維持されてのであれば、これはある意味で正しい。特定企業に勤務し続ければ、賃金の上昇は保障されるからだ。

しかし、経済状況が安定を失い、企業として安定を恒常的に維持できなくなると、話が変わってくる。終身雇用が維持出来なくなるのだから、若いときの貯金を確実に受け取れる保障がなくなってしまう訳だ。

結局のところ、雇用が流動化せざるを得ない状況には、メンバーシップ契約という考え方はそりが合わないのだ。

という所で、実際の現場はどいう事になっているかというと、まあだいたいどこも似たようなもんだろうとは思うけど、年功序列と終身雇用と成果主義が混ざったかなり歪なものになっている。そして、雇用の流動化を支える非正規労働者と正社員の間にも利権の対立が生まれてしまっている。

そして、昨年のリーマンショックに端を発する、世界同時不況の煽りが、IT業界にも押し寄せてきていて、それが現状の歪になってしまった雇用形態を、図らずも暴き出す形になってしまっている。

日本のIT業界を支えてきた多重下請け構造は、技術の下請けでもある訳だけど、人員整理が始まれば、真っ先に対象になるのは当然派遣労働者な訳で、そこを無くすと現場を支えた技術力は当然低下する。

しかし、本質的にはメンバーシップ契約であるのが日本企業だから、技術に相当する部分の職務を正社員で賄っていくのは当然という話になるが、高度な専門性が一朝一夕で身につく訳はないから、現場が回らなくなり始める。

本来であれば、業務の遂行に支障をきたさない様に、職務別のバランスを保ったままスケールの縮小をはかるべきなのだが、メンバーシップ契約という観点を守ろうとすると、メンバーでないものから切るという選択にどうしてもなってしまう。だが、メンバーシップ契約では、職務にたいする専門性を育てる事は難しい。

現状を認識しないままの建前の堅持とコレまでの慣習によって、間違った判断が下されている。そして、既に歪だった状況がより歪なものになってしまっている。。。

と、かな~~~り暗い話になってしまったが、極東ブログが述べている様に、

日本の市民が各種のポジション(正規組合員や非正規組合員)として実際に、惰性構造的に、そして対立的に分断された現在、著者の濱口氏が示す「ステークホルダー民主主義の確立」という課題は、広く開かれて問われる課題となる。社会を維持するコストを適正に配分していくことは、その上に成り立つ民主主義にも重要なのであって、民主主義が理念的に問われるよりも現実的な課題になる。

ステークホルダー民主主義の確立という方向に、社会としては動いていかざるをえないだろう。8月末には選挙も迫っているので、是非政治家の先生方には、そういった視点をもった政策を期待したいもんだが、どうも自民・民主のマニュフェストを読んでみても、微妙~~~である。選挙に行く気を失う。。。。うーむ。。。
大不況には本を読む (中公新書ラクレ) 大不況には本を読む (中公新書ラクレ)

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別に大不況じゃなくても本は読むけど。。。という様な話ではなくて、橋本治は今新書でなにを書くのかな。という興味で読む。

とはいいつつこの本は全然本の話ではなくて、9割経済のお話です。そして、橋本治を系統的に(まあこの人には系統なんてありませんが。。。)読んでいるなら、毎度のお話です。

でまあ、その9割の経済の話は、買って読んでもらうとして、何で本を読むんですか?という話です。

割と本を読む人間であれば、一度は、

「なんかおもしろい本教えて」
「どんな本読めばいい」

なんて事を聞かれた事はある訳ですが、こういう質問はホントに困ります。自分が面白いと思う本が、他のだれかにとって面白いかどうかなんて知らないし、自分が良いと思う本が他にの人にも良いがどうかも分からない訳で、困ります。(あのベストセラーは面白いの?っていうのも困ります。本好きな人は普通ベストセラーなんぞ読みません。)まあ、だから適当な本を薦めてお茶を濁す訳ですが。。。

大体、人は何で本なんて読むのかという問いがあります。それは、読みたいから読む、面白いと思うから読む。という事になります。だから、読みたいとも面白いとも思わなければ本なんて全然読む必要はないわけです。

もう一つ大きな誤解に、本を読んでいる人は、頭がいいとか、頭が良くなりたいから本を読むというのがあります。本なんか読まなくても、頭いい人はいるし、本を読んでもお利口にならない自分みたいな人間もちゃんといます。本を読んだ結果として、知識が増えるというのはもちろんですが、殆どの本が好きな人は、知識を増やそうと思って本を読む訳ではありません。

本好きには、大体2種類の人間がいます。

1.先天的本好き
→両親が本好きとか、子供の頃から本を読むのがあたりまえ環境がある。

2.後天的本好き
→なにかのきっかけで本に嵌る。

1と2どっちが、多いかはしりませんが、自分は2で、19歳までは殆ど本なんて読みませんでした。読むようになったきっかけは、現実で壁にぶつかってどうにもならなかったからです。そういう時に、本は一番いい薬になります。本を読むというのは、基本的には、他人の考えを読むことで、その本を書いた人間と、読んでいる人間は別人なので、当然自分なりの視点で読みます。だから本に書いてある事とは全然別の事を考えたりもします。で、それが本の効能である「行間をよむ」という事にります。

だから、本を読むというのは、正確には本に書かれていない事を読むという。一見すると???という事になるわけです。橋本治はこんな風に書いています。

なぜ本に「書かれていないこと」が存在するかと言えば、「本の書き手の視点」が、「その本の読み手の視点」とは必ずしも一致しないからです。「書き手はこう言っているが、読み手である自分にとってはどうなんだろう?」というズレが、必ず出ます。だからこそ、本の中には「書かれていないこと」が存在して、読み手は「その本にかかれていない自分のあり方」を探すのです。つまり、「行間」とは「読者のいる場所」なのです。その「居場所」がある限り、読者は「自分のあり方」に沿って、いろいろと考えなければなりません。それを「いやだ」と思ったら、読者はその本を捨てます。

『大不況には本を読む』p220~221

普通、人は自分のあり方を探す為に本を読みます。立ち止まって考える為に本を読みます。こういう事が出来るメディアは、本しかありません。もちろん、本抜きで、自分自身の事を考える事も出来ますが、そういう行為はあまり良い結論になりません。なぜなら、そこには自分自身の視点しかないからです。

本というのは、人間の考えるという行為が共同で成立する結構希な状況を成立させてくれる装置でもある訳です。

また、考えるという行為は、基本的に未来に向いたベクトルをもっています。ですが、考えるとは、常に過去を考えるという事でもあります。現状がかくかくしかじかになってしまったという事を見つめ直すには、過去を振り返るしかないからです。

過去を振り返らない限り、現状の分析は出来ないし、未来も築けないのです。

本が凄いのは、そこに他人の過去が書かれているという点です。(1000円かそこらで、他人の過去が読めるというのはよく考えると衝撃です。)他人の過去と、自分の現在がぶつかって、未来がすこし見えるという仕掛けになっているのが本なのです。

という所で、何で大不況に本を読むという事になるかというと、過去を振り返るという事をしないで、だらだらと現状を引きずってきた結果として今があるから、本を読んで未来を考えようというのが、至極まっとうな橋本治の主張です。

このブログでもさんざんバブルバブルと言って、過去のことに関してうだうだと言及してますが、それは、なんで今こんな状況なのという事をちゃんと考えようとすると、過去に戻ってみるという事をするしか手がないからです。

活字離れとか、出版不況とか言われるのは、本に関わる仕事をしている人間にも一定の責任がある訳ですが、くだらない本であっても、本を読まないと、人間はどんどん未来を考える手がかりを失っていきます。特に、歴史がこれまで経験した事がないような状況であれば尚更です。(歴史を人生に置き換えても構いません。)

売れる本は、ビジネス書だったり、How To本が多いですが、こういう「こうすれば、こうなる」というという事が書いてある本には、「行間」というものがありません。それは考える余地がないという事です。でも、自分で考えなくても答えが提示されているこういう本を読んで、「ああロクな本じゃない」と思う事もまた本を読む行為だったりするので無駄とも言えません。

だから、本を読めという言説はある意味では、正しかったりする訳です。でも、「じゃあどんな本を読めばいいんですか?」という質問には、誰も答えられないのです。「行間」は人によって変わるからです。本は答えを教えてくれるツールではなく、考え方を身につけるツールだからです。本を読むとなにか答えがみつかる思っている人は結構いるみたいですが、それは大きな誤解で、本を読んでも何にも答えなんて書いてない訳です。

で、この『大不況には本を読む』の「行間」は、橋本治の作品を沢山読んできていると、結構感動的でした。読者なら、源氏物語/平家物語の翻訳や、美術史の本を書く著者が、どうしてこういう本を未だに書いているのかという事には思い至るはずだし、そこに隠れた橋本治の矜持を思えば、おのずと勇気がもらえる新書です。
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