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[書評]毎月新聞(佐藤雅彦): 極東ブログ

ちょっと前に、finalvent氏が取り上げていて、抜粋だけでもとても面白そうだったので購入した。

確かに読みやすく、含蓄があるエッセイだった。文体はとても素直で読みやすい。スラスラとページをめくる事が出来る。また、話も独自の捻りが少し効いているという感じで、肩肘ばったところがないのがいい。

個人的に好きなのは『オレンジの皮』。こんな風に、日常の些細なことから立ち上がってくる感覚というはとても素敵だなぁ~と思う。

また、『三角形の内角の和が180°であることの強引な証明』とかも好きだ。この人の表現の根本にあるバランス感覚はいいなぁと思う。

でも、一番素敵なエッセイは、やはり、『真夏の葬儀』だ。

佐藤雅彦氏は、伊豆の小さな漁村で幼少時代を過ごしたようだが、この人の感性の原点は、子供時代に培われてるのだろうと思わせるような、故郷、あるいは母への想いというのは本書の随所に見える。

そこでとりおこなわれる昔ながらの田舎の葬儀の情景描写は、人の想いというものの受け止め方について、なんともいいようもない美しさと哀しさを讃えているように見える。

一体、想い半ばにして、この世を去ってしまった人の想いというのは何処へいってしまうのだろうか?彼らの果たされなかった想いは何処へ行くのだろう?

答えを簡単だ。それを知る生きている者が引き受けているのだ。知る事はさほど難しくないが、それを引き受ける事は想像を絶して難しい。でもそれは、残されたもの達が生きる殆ど唯一の理由だと思えたりする。

このエッセイでは、漁船の汽笛という形で、死者とのこされた者たちが響き合っている。なんとも簡潔にして、美しい情景だ。そんな風にして、死者が本当悼まれている。

『真夏の葬儀』だけでも、このエッセイを読んで良かったな思う、底知れない名文だった。素晴らしすぎて言葉が出なくなった。
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素敵な逸話を思い出した。
 
  僕の好きなポプシーの話は、グッドマン(俺注・ベニー・グッドマンの事ですよ)のバンド・ボーイとして、プリンストンに仕事にいったときのやつだ。彼はバンドスタンドをセットアップして、ベニーの楽屋でいろんな用意をしていたのだが、ふと気がつくとベニーのためにいつも持ち歩いている煙草の箱の中には、一本しか煙草が残っていなかった。慌てて外に出て、どこかで煙草が買えないものか捜し回ったのだが、そのへんで目につくものといえば、並木道に沿って連なる大学の建物だけだ。いったいどっちに向かえば煙草屋があるのか見当もつかない。
  「そのとき白髪のじいさんが一人こっちに歩いてきたんだ」とポプシーは言った。「よれよれのズボンにスウェット・シャツという恰好で、髪はぼさぼさだった。僕は走っていって、どこに行けば煙草が買えますかねと訊いたんだ。じいさんは僕の身なりに興味をもったようだった。僕はすごくヒップな恰好をしていたからね。黄色のカーディガン・ジャケットにペグド・パンツ、それにベレー帽さ。彼は僕に服の事を尋ね、何処からきたのかと訊いた。まるで火星から来た人間に会ったみたいな感じだったね。
  僕は適当にじいさんをあしらった。そしてちょっと急いでいるんだよ、ベニーの為に煙草を買わなくちゃならないんだと言った。やっとじいさんは教えてくれた、こっちに二ブロック行くとキャンディー・ストアがあって、煙草ならそこで買えるよってね。僕は大急ぎで煙草を買って戻ってきた。すると演奏会場の前にいた若いのの一人が、あんたアインシュタイン教授とあそこで何か話していたけど、何の話をしていたんですかと僕に尋ねた。アインシュタインだって!僕はそのじいさんを用務員か何かだと思っていたんだ。考えてみなよ、ポプシー・ランドルフがアルバート・アインシュタインと話をするなんてね!そりゃよさようなじいさんには見えたけどさ、やれやれ、なんとアインシュタインだって!」

『さよらなバードランド』  ポプシー・ランドルフ  p258-259
ちょっと前に、世界陸上は終わってしまったけれども、僕は随分前から世界陸上とかオリンピックは出来るだけ見るようにしている。何しろ見ていて面白い。4年に一度なんてセコイこと言わないで毎年やってくれるといいのにとさえ思う。

とは言え、別に金メダルが何個だとか、そういう話には全然関心がなくて ― もちろん、日本人選手が金メダルとって嬉しそうな顔してると、良かったねとは心の中では思うけれども ― ただ単純に、選手達の一挙手一投足を見ているだけで満足できる。

前にも書いたかもしれないけど、今では立派な文化系に人間になってしまった自分も高校生まではかなり真剣にスポーツに打ち込んでいた。ハンドボールというマイナースポーツであったけれど、全国大会とかも何度か出場したし、それなりのレベルの選手達とも渡り合ってきた。もちろん、練習も死ぬ程した。本当に死ぬ程した。大体、昔の部活の異常な練習の話すると、普通の人は大げさに脚色して話を面白くしてるんだろうなんて思うらしいけど、ノンフィクションだよ。ゲロ吐くまで走ったし、足が攣ってるのにウサギ跳びしてた。全米は泣かないけど、それなりの感動を人に与えるくらいは頑張った。

まあ、それでハンドボールで飯を食っていこうとまでは思わなかったけど(理由はいろいろある)、この先の高見を目指していくと、多分テレビに映る世界陸上とかオンリピックの選手達のいる場所に通じているんだなという感覚くらいは分かる。

だから、競技中の彼らが大体何を考えているかというのも、結構感じ取れる。(まあ、あれだけ練習したんだからそれ位の恩恵はあっても罰はあたらない。)大体において、彼らは何を考えているかというと、自分の肉体と会話している。この自分の体との対話は、練習を積めば積むほど、多分、濃密なものになる。もちろん、感性が成熟するというもの大事なファクターなので、高校生ぐらいだとちょっと難しいかもしれないけど、一流のアスリートなら絶対に自分の体と対話する術を持っている。これはまず間違いない。

特に、自分を追い込んでる時ほど、世界は意識と自分の体にだけなって、自分の意識と体の合一を目指す為に、殆ど全ての集中力が注がれる事になる。

当たり前だけど、スポーツの極意は完全に自分の体を自分の思い通りコントロールする事にある。自分のイメージ通りに体を操る事が出来れば、アスリートとしては天才の域だろう。

(?と思っている人も居そうなので補足。普通は自分の体なんて、自分の思い通りに動くと思うけど、自分の体は、自分のものだというのは現代人の大いなる勘違いであって、それはコントロールの効かない自然に過ぎない。勝手に眠くなるし、風邪も引くし、新型インフルエンザにもかかるし、ウンコもしたくなるし、生きたくても死ぬ。もちろん、自分の思い通りにパソコンのキーボードは打てるけど、だからと言って、バットを振ってボールに当てるのはそんな簡単な事じゃないのだ。ある程度思い通りに動いてくれるのは、長年の生活の中で練習してきたからだけに過ぎない。で、ある程度と、完全に思い通りというのでは全然話が違うのだ。)

でも、そこまでいくのはそうそう簡単じゃないから、日々の練習の中で、自分の意識と体のズレをちょっとずつ微調整していく。そうやって、目的の大会なりなんなりに向けて調整する訳だから、オリンピックとか世界陸上なんて大きな大会になれば、限りなく自分の意識と体が合一に近づいている選手が沢山みられる訳だ。これが面白くないハズがない。

特に、陸上競技は大好きで、本当に見ていて飽きない。陸上というのは、もちろん他の選手との記録の優劣を競うもんなわけだけど、多分、多くの選手の目指す所は、過去の自分の記録との闘い勝つことだ。そうやって、自分の肉体とストイックに闘っているのだ。

小林秀雄に『オリムピア』というエッセイがある。ちょっと冒頭を引用してみる。

  「オリムピア」という映画を見て非常に気持ちがよかった。近頃、希有な事である。
  健康とはいいものだ。肉体というものは美しいものだ。映画の主題が、執拗に語っている処は、たったそれだけの事に過ぎないだが、たったそれだけの事が、何という底知れず豊富な思想を孕んでいるだろう、見ていてそんな事を思った。出て来てもそんな事を考えていた。
  砲丸投げの選手が、左手を挙げ、右手に握った冷たい黒い鉄の丸を、しきりに首根っこに擦りつけている。鉄の丸を枕に寝附こうとする人間が、鉄の丸ではどうにも具合が悪く、全神経を傾けて、枕の位置を調整している、鉄の丸の硬い冷たい表面と、首の筋肉の柔らかい暖い肌とが、ぴったりと合って、不安定な顔が、一瞬の安定を得た時を狙って、彼はぐっすり眠るであろう、いや、咄嗟にこの選出は丸を投げねばならぬ。どちらでもよい、兎も角彼は苦しい状態から今に解放されるのだ。解放される一瞬を狙ってもがいている。掌と首筋との間で、鉄の丸は、団子でも捏ねられる様なあんばいに、グリグリと揉まれている。それに連れて、差し上げた左手は、空気の抵抗でも確かめる様に、上下する、肌着の下で腹筋が捩れる、スパイクで支えられた下肢の腱が緊張する。彼は知らないのだ、これらの悉くの筋肉が、解放を目指して協力している事は知っているが、それがどういう方法で行われるかは全く知らないのだ。鉄の丸の語る言葉を聞こうとする様な目附きをしている。おそらくもう何も考えていまい。普段は頭の中にあったと覚しい彼の精神は、鉄の丸から吸い取られて、彼の全肉体を、血液の様に流れ始めている。彼はただ待っている、心が本当に虚しくなる瞬間を、精神が全く肉体と化する瞬間を。
『栗の樹』 ― オリムピア P38~39 講談社文芸文庫

なかなか含蓄があるエッセイだ。

人間の精神と肉体の合一の瞬間というものは、非常に単純な美しさで人を感動させる力がある。陸上で分かりずらければ、ダンスをイメージしてみればいい。精神の躍動を肉体で表現するのが、ダンス(というか舞踏)の原理だ。精神の躍動を出来るだけ忠実に肉体で表現されダンスは人を感動させる力がある。

で、話はここでは転じる。

肉体は、人間とってもっとも身近な自然だ。まあ、そういう事は、普段生活している忘れがちになるけど、アスリートはいつも自分の体が思い通りにならない事を熟知している人達だ。そして、肉体を操る為に尋常じゃない努力をしている。

実はこう書いてくると、多くの人は納得するだろうけど、実は肉体を操るというここまでの書き方は嘘で、意識/精神の方を肉体に近づけると言った方が適切だったりする。肉体というのは、人間が常にもつ制約であって、その秩序の中に精神を閉じ込めると言った方が正確なのだ。肉体は、精神の碇なのだ。主が精神で、従が肉体という無意識の前提は現代人の病だとさえ思う。

小林秀雄は、そういう現代人が抱える肉体と精神の関係を次の様に書いている。

 併し、考えてみると、僕らが投げるものは鉄の丸だとか槍だとかに限らない。思想でも知識でも、鉄の丸の様に投げねばならぬ。そして、それには首根っこ擦りつけて呼吸を計る必要があるだろう。単なる比喩ではない。かくかくと定義され、かくかくと概念化され、厳密に理論附けられた思想や知識は、僕らの悟性にとっては、実に満足すべきものだろうが、僕らの肉体とってはまさに鉄の丸だ。鉄の丸の様に硬く冷く重く、肉体はこれをどう扱おうと悶えるだろう、若し本物の選手の肉体なばら。無論、はじめから選手になどならないでいる事は出来る。思想や知識の重さを掌で積ってみる様な愚を演じないでいる事は出来る。僕らの肉体は、僕らにきわめて親しいが又極めて遠いのだ。思想や知識を、全く肉体から絶縁させて置く事は出来る。大変易しい仕事である。

『栗の樹』 ― オリムピア P40~41 講談社文芸文庫

ちょっと難しい持って回った言い方だが、その言わんとする処は十分伝わってくる。思想でも、知識でも一見思い通りなる様に見えるものだが、それは、それらが肉体から離れてしまっているからだ。という事だ。思想や知識に限らない。言葉だって、思い通り使えそうで、実は思い通りに扱う事はとても難しい。思い通りに使えると思っている内は、多分、言葉に騙されている。

例えば、文章なんて、思った通りに書けるものの様にみえるけど、多分、思い通りに書いている内は、まともな文章は書けてない。どんな人でも、文章を書けば文体というものが生まれる。どんな下手くその文章でも、プロの物書きの文章でも、必ず文体というものを持っている。

文章を思い通りに書いているというのは、文体を無視して(ホントは絶対無視なんで出来ないけど)自分の意識で文章を書いているという事で、それは肉体から離れた精神と同じで、簡単な事だ。

文体というのは不思議なもんで、書いた文章よって逆に自分自身が規定される。自分で書いた文章が、逆に自分自身に次を問うてくる。それに自分で答える事が出来れば、次の文章が書ける。でもそれに答える事が出来なければ、もうそれ以上は書けなくなる。文体というのは自分自身の精神の制約そのものだったりもする。

言葉というのは、便利なものだなんて事は今更言うまでもないが、便利なものは常に毒を持っていて、使っている本人を常に規定してしまう怖さを持っている。言葉の毒で、精神なんて簡単に硬直してしまう。もちろん、使っている本人は言葉を自由に使っているつもりだが、実際は言葉に使われている。言葉の不思議や謎に注意していないと、その不思議や謎は、使っている当人に向けられる。

まあ、何が言いたいかというと、言葉もまた自然であるという事が言いたい。意識で簡単にコントロールしようと思っても簡単にはいかないし、コントロールした気になれば、簡単に使っている当人に牙を剥くのだ。

言葉を使う時も、砲丸を投げる時の様に耳を澄まさなければならないし、言葉が肉体から離れてしまわない様に、注意深くなければならない。一旦肉体から離れた言葉は、空虚な概念と化し、二度と戻ってこない。別に大した文章なんて書いてないけど、この事は、4年もブログを続けてきて身に滲みて理解出来る。

僕は、村上春樹の本も良く読むけど、村上春樹は走る作家としても有名だ。これだけ、肉体を意識している作家は他には多分いないだろう。彼の文章の魅力は、その言葉の測り方が天才的なところにあるのだろうと思う。それは、多分作家の言葉というより、アスリートの言葉に近いとよく感じる事がある。頭で捏ねくり回した概念や空想ではなく、肉体から出来てきた、肉体に繋がった言葉だと感じる。

一流のアスリートが、含蓄がある事を言うのも、自分の文体を持ってしゃべっていることも納得が出来る。彼らは、精神を肉体に繋いで置く技術に長けているのだ。これは文字通りアスリートの言葉だけどね。

村上春樹の言葉かどうかは忘れたけど、「頭をひねらせずに心をひねらせるのが本当に優れた小説である」という言葉がある。そして、自分はそういう小説を書きたいと言っていたけど、頭をひねらせるのは確かにそんなに難しい事じゃない。難しい理詰めで文章を書けばいい。でも、それだと、人の心を物理的に動かす事は出来ない。心ひねらせる文章にはならない。

毎度、オンリピックとか世界陸上とかで、選手を見ているとつらつらとそいう事を思う。TVのうるさい解説の音声を消して、彼らの肉体の言葉、アスリートの言葉に耳を澄ましたくなる。

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ぼくは猟師になった
ぼくは猟師になった 千松 信也

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starsワナ猟を始めの一歩から垣間見て
starsまさしく狩猟生活の美学です。
stars猟をしたことの無い日本人は必読
stars猟師の世界を通じて食を考える
stars序盤からくらいつきました

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面白くて一気に読んだ。

33歳にして8年目の猟師生活を送る著者の生活のディティールがいちいち興味深い。ワナで仕留めた獣類をさばく手順が写真入りで、細かく説明してあるとことか。安易だけど、読み終わって、ちょっと猟師になってみたいなって思わせる。そういう魅力がシンプルな文章で伝わってくる。

著者は僕よりも6歳程年上だが、子供の頃の風景はとても良く伝わってきた。いわゆる”町の中の田舎”というのは、20年位前は辛うじて残っていて、確か小学校に入るまでは、僕の実家も蒔風呂だったし、河原で虫をとったり、沢で蟹とったりなんて事はやっている。庭に蛇がいたりとかも普通にあった。そういう記憶が掘り起こされた。

何が新鮮かっていうと、著者の視線が常に自然物に向いている事。文章の殆どが自然物に対する著者の考察で、それがなんとも面白い。猟師として成長する為には、当然自然のディディールが読めるようにならないと話にならない。初めのうちは、そういうディティールが読めないが、次第にけもの道が読めるようになったり、獣の行動パターンが分かるようになっていく。そういう過程を読んでるほうも追体験しているようで引き込まれる。

あと、なんと言ってもイノシシの肉とが本当に旨そうだった。

著者はあとがきで、自身の狩猟生活をこんな風に振り返る。

七度目の猟期を迎えて思ったのは、やはり狩猟というのは非常に原始的なレベルでの動物との対峙であるが故に、自分自身の存在自体が常に問われる行為であるということです。地球の裏側から輸送された食材がスーパーに並び、食品の偽装が蔓延するこの時代にあって、自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。そのすべてに関して自分に責任があるということは、とても大変な事であると同時にとてもありがたいことだと思います。逆説的ですが、自分自身でその命を奪うからこそ、そのひとつひとつの命の大切さもわかるのが猟師だとおもいます。

「僕は猟師になった p221~222」

去年は、食品偽装が大ブームだったけど、それは自分の食べるものに関して、みんな責任を放棄しているんだから仕方がないのでは思っていた。偽装業者を擁護する訳じゃないけど、「文句があるなら食うなよ。」と言われればそれまでだと思うし。自分の命を支えるものを、他人に任せているんだという事を消費者が見つめ直さない限り、この問題な多分なくならないだろうとも思う。だから著者の生活にある部分では憧れてしまうのだろう。

といってもみんなが猟師になれる訳はない。ただ、自分の食を守ることは何も山の中に入らなくても出来る。たとえば、豆腐を近所の豆腐屋で買う。信頼出来る肉屋で肉を買う。それだけでも全然話は違ってくるはずだろう。

もうひとつ思ったのは、著者が狩猟会の人達や、猟師仲間と話す話題。あそこの山がどうだとか、あの鳥の名前は何だとか、そういう事が話題の中心で、人間関係の事は殆ど話題にならない。そういう生活をしていれば当然だろうが、自然が話の中心で、四季ごとにそのディティールが変わっていくから話題にも事欠かない。これは、都市生活者には多分分からない感覚だろう。普通に都会で暮らしていれば、自然の話題なんで天気位のものだし。

コミュニュケーション能力なんて言葉は都市生活でしか意味を成さない言葉で、自分が思った事を正確に伝えるだとか、相手の気持ちを推し量るとかが、技術に成らざるを得ない。相手と常に一対一で向き合わなければならないから、その緊張がストレスになったりもする。でも相手との間に自然が入る事で、相手と直に向き合うのではなく、動物や植物の話をすることで相手の事が分かったりする。っていうか日本人は古くからそういうコミュニケーションをとってきた。歌や俳句、連歌とかいうのは、基本的に自然物に気持ちを託す形式をとっていて、日本人の世界観がよく表れている。

話が、ちょっと脱線しすぎた。

ともかく、面白い本だったので、是非色んな人に読んでもらいたい。
かけがえのないもの (新潮文庫)
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床に貯まっていた養老先生の待ち行列を消化中。
一時期に比べると全然読まなくなってしまったけど、とりあえず新刊が出れば買う作家の一人なので、貯まりに貯まって5年分ほど。。。

といっても「バカの壁」以降、いろんな人との対談本も増えたし、そういうものまではカバーしてない。養老先生もよくやるよね。と感心するばかり。この人はどこからどうみても人生を半分降りているが、それでも世間との付き合いは大事にしている。こういうのは陸沈って言うんだっけか、、、

「バカの壁」が大ベストセラーになって、あの時は凄かったけれども、やっぱり流行は流行なので、「バカの壁」の真意が伝わった人が何人いたのかしらん。当時は、養老孟司の名を出すと、ああ「バカの壁の人ね」と二の句が帰ってきて、「いやまあそうだけど、そうじゃないんだよね。。。」感もあった。

養老先生は、あまり回りくどく説明しない人だし、内容も内容なので、真剣に読むのは頭に余裕がないとしんどい。それに、「唯脳論」「人間科学」「形を読む」等、筑摩で文庫化されているの一式読むと、いやはや凄い人だという事になる。こんだけ頭がいい、というか思考が練れる作家は養老先生くらいのもんだろうと思う。

で、

久しぶりに読み返してみたけど、10年前と言っている事は基本的に同じ。文章はさすがに洗練されてきているけど、本質は一緒。とは言え全然つまらなくなかった。よくもまあ根気が続くよな。感心した。言っても言わなくても変わらない世の中だからって、決して諦めないし、へこたれない。疲れたとたまにボヤいても。。。格好いい大人。

感動的だったのは、語り口がより平易になった分だけ、養老先生が坊さんになっている事だった。それもそんじょそこらの坊主じゃなくて、臆さずに言わせてもらえば、仏陀とかそういうレベルの坊さんの雰囲気がある。とくにこの「かけがえのないもの」はそう。講演の内容を纏めたものだからそう感じるだけかもしれないが、改心させられた様な気持ちに本当になる。斜に構えずに読むと、心にグイッと踏み込んでくる説得力と優しさがある。特に自然物に対する眼差しとかは、養老先生の笑顔付きですか?という程文章に人柄が乗っかっている気がした。

久しぶりに過去の作品も読み返してみようと思う。

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